ランベス会議(その1) ブラックバーン教区訪問

 教区関係者の尊い献金と暖かい見送りを受け、関空からマンチェスターに向けて出発しました。

会議に対する不安

 十年に一度開催されるランベス会議ですが、出席を前にして実を言えば気分は晴れやかではありませんでした。

 理由は二つあります。出発二日前、英国聖公会総会では女性主教容認を決議しました。これが会議に影響を及ぼさないだろうかとの懸念です。第二に、六月末エルサレムで、同性愛者の主教按手や同性愛婚の教会での祝福に反対するアフリカやインド、東南アジアなどの主教三百三名と教役者・信徒代表約千二百名が集いエルサレムで会議(Global Anglican Future Conference・GAFCON)が開かれました。会議では全聖公会内に同盟(フェデレーション)結成を呼びかけました。しかも、会議参加主教の約二百五十名はランベス会議出席を拒否しております。様々な難問を抱えている全聖公会の現状を見据え、将来の方向性をランベス会議で協議するとき、不参加主教の意志が充分に反映されないなかで何事かを決定すれば、全聖公会の分裂が明確になるのではなかろうか、との危惧を私は抱いておりました。

ブラックバーン教区

 七月九日から十六日まで、林執事、妻、そして私はウイリアム・テンプル主教がマンチェスター教区主教時代の一九二四年に分封されたブラックバーン教区を訪問する機会が与えられ、約百年前、この地方で盛んであった綿栽培で富を築き上げた農家を買い取り主教邸としたところに私たちは滞在することになりました。何百年という歴史のある他教区主教邸と比較することはできませんが、日本では想像もできない立派な建物でした。来客用の寝室が五,六部屋、主教執務室、チャプレン室が設けられており、専任秘書と会計担当者が常時事務所に詰めています。小礼拝堂もあり、主教は毎朝「聖餐式」を献げ、毎夕、チャプレンと「夕の礼拝」を守っております。ニコラス教区主教は林執事が学んだのと同じ復活神学校(マーフィールド)出身でした。

 ブラックバーン教区は約二百名の司祭と同数の教会を擁しています。教区主教の他、二名の補佐主教が配置されており、その名をランカスター主教とバーンレイ主教と呼びます。両方とも地名ですが、この地域の教会を管轄しているのではなく、教区の主要な会議などに補佐主教が出席し、最終決済を教区主教に仰ぐという職務を担います。ちなみに女性司祭は五十名存在し、女性司祭反対派のニコラス教区主教、バーンレイ主教に代わり、ランカスター主教が女性を司祭に按手する仕組みです。

イスラムとの対話と連携

十二日(土)、バーンレイ市のパキスタン人とバングラデシュ人が住む街を訪問しました。5年前、この街で英国人とアジア人の間で争いが起こり、商店の窓ガラスが壊され、車が焼かれ、騒動は2日間にわたり続きました。この状態を憂えた教区主教は、バーンレイ主教をイスラム教の人たちと話し合いをするために派遣しました。当初イスラム首脳部は相当警戒心を抱いていたのですが、主教の、しもべとしての姿にいたく感激し、以来、様々なかたちで協働しています。キリスト教やイスラム教に対する理解を深めるため、旅行団を組んで、一昨年はロンドン、昨年はローマを訪れております。私たち一行はモスクでの午後の礼拝に参加しました

宗教が異なっても、対話と討論を持続することによって相手の立場が次第に理解できるようになるのです。この街がイスラム過激派の土壌にならないためにも、宗教者同士の連携が切に求められています。

【写真説明】イブラハム・モスクにてイスラム指導者に囲まれて。

イブラハム・モスクにてイスラム指導者に囲まれて。

 左二人目から、 中央ペンシルバニア教区バクスター主教、オンタリオ州アルゴマ教区フェリス主教、バーンレイ主教 

活気づく教区

十三日(日)、ニコラス主教ご夫妻と共に堅信式執行のため海岸地方のモアコンベの教会へ。礼拝出席者は百五十名位でしょうか。礼拝日誌を見ますと先主日は約百名ですから、盛んな教会であるとの印象をもちます。しかも若者の姿が多く見られます。この日、小学校高学年から五十歳代まで、二十五名が堅信礼にあずかりました。

 礼拝後、教会ホールでシェリーを飲みケーキをいただいておりますと、中学生が寄ってきて私に話しかけてきました。そのうち数名の若者も近づいてきて、「日本の今の気候は冬か」などと聞いているその若者と私を好奇な目で眺めています。日本人主教に初めて会ったようで、話をすることが、人生における貴重な体験となったようです。

 

(神のおとずれ2008年10月号より)