アンデレ便り9月号:「らしく」生きよう
今回の中高生大会のテーマは「らしさ」ということですが、「自分らしさ」という言葉を調べ
てみますと、「その人独特の性格・性質」ということになり、「その人の特徴が良く出ているこ
と」を表す接尾語になります。
私の経験
「自分とは?」何を指しているのでしょうか。「分」という言葉の成り立ちは、本来備わって
いる性質を意味する「本分」の「分」で、力量や性質を自覚している時に、「自分らしさ」と
して実感できるということになります。しかし、「自分らしさ」の評価は、自分自身と他人のそ
れとは相当異なる場合が往々にしてあります。若い時は、隠されたすばらしい、自分への客
観的な気づきが求められると思いますが、それを妨げる要因は自分の醜さです。それを覆い
隠そうとする思いが心をもたげるからであり、その最たるものは劣等感なのです。
私の父は牧師で、兄弟が9人という大家族のなかで生活してきました。食事も2交代制で、
勉強しようにも、そのスペースにも限りがあります。貧しかったので、幼稚園も行っていません。
小学校に入って初めて、教科書を通して、日本語の文章にふれました。とはいっても、小学
校では真剣になって勉強した記憶は全くありません。学校が終わると、外に出て野山を駆け巡
り、友達と遊ぶほうが楽しかったからです。学校に持っていくものは、常に兄のお下がりで、
クラスでの私のあだ名は「ぼろカバン」でした。実際、かわいそうなくらいのぼろぼろのカバ
ンでした。この時の貧しさのコンプレックスは高校・大学まで引きずりました。
小学校で一番恐ろしい日は9月1日です。夏休みの宿題は最初の5分の1だけ手を付けて、
後は遊びに夢中です。8月も後一週間くらいになったとき、さすがに焦りがでてきて、宿題に手
を付け始めます。日記や読書感想文は適当に書けるのですが、不得手なのが自由工作で、
未完成のまま、先生に叱られることを覚悟しながら、9月1日の朝を迎えなければなりませんで
した。家ではどうでしょうか。とにかく、兄弟同士の間には不満が絶えません。いきおい、喧
嘩が始まりますが、業を煮やしたおやじが背後に立っており、振り向きますと、あっという間に
鉄拳が飛んでくるのです。数回の経験で、父親の気配を感じることができるようになりました。
近寄ってきた親父の脇をすり抜けて脱兎のごとく外に逃げ、桜の木の上に登って難を逃れると
いう具合でした。父親は仁王立ちでこちらを見上げておりますが、10分もしたら、いなくなりました。
中学になり、バスケットボール部に入りました。この部に入れば背が高くなるのではないか
との不純な動機によるものです。そのうちに一学期前期のテストが行われました。終わってや
れやれと思ったのもつかの間、何と、1番から最後までの成績表が廊下に張り出されたのです。
当時、10クラスで1学年が500人ぐらいで、私の成績は確か383番だったと記憶します。学校
というところは生徒の思いを無視しても、競争心をあおるためには何でもするところだというこ
とを身にしみて実感しました。試験1週間前からクラブが休みになりますから、試験までの間に
計画表を作って、それに従って復習をしてみようと決心し、生まれて初めて、勉強に真剣に取
り組みました。結果、後期テストは、学年中、30番くらいの成績を獲得できました。勉強とい
のは、やればできると、初めて実感した瞬間でした。
一方、バスケットボールですが、2年の二学期からキャプテンに選ばれました。ところが、
受験勉強で退部するまでの1年間、1勝もできないというワースト記録を作りました。腹が立っ
たのは、キャプテンが交代したとたん、あっけなく勝利をおさめたことです。私は、だめキャ
プテンの烙印を押されたのでした。
活かされる自分
小学校時代を過ごした下関の教会を訪れ、当時の極貧生活の思い出話に花を咲かせてい
たとき、高齢の信徒の方が、「中村先生のところも大変でしたが、私のはそれ以上に酷い生
活でした。」と話し始め、どっちが貧しかったかの競い合いになり、大笑いでした。貧しさの経
験をプラスに転じさせることができるのです。経済的に大変であっても、何とか生きていけると
いう希望を持つことが、経験則から分かるというものです。
イエスの弟子の場合、どうであったでしょうか。12人いた弟子のなかの多くは元漁師で、ガ
リラヤ湖畔でイエスに出会ったとき、家や職業を捨ててイエスに従いました。多くの人たちがイ
エスのもとに集まりましたが、釣りに興味がある人たちに、「どのようにしたら多くの魚が捕れる
か、テグスにうまくハリをつけれるか。ガリラヤ湖では、一日のなかで、どの時間、どの場所
で一番魚がとれるか」などの釣り談義は一切しておりません。弟子たちは過去の漁師らしい自
分を捨てて、全く新しい人生を歩んだからです。
ところが、イエスが逮捕されたとき、弟子たちはイエスを見捨てました。御身大切が頭に去
来したのと同時に、自分たちの望み通りの人間にイエスがなってくれなかったからです。師に
忠実である振る舞いが弟子らしさを醸し出すというものですが、いつの間にか、イエスを差し
置いて、仰ぐべき師は自分のなかに存在したことが露呈したのです。
復活のキリストは、弟子たちの望みや夢が間違っていたことを気づかせ、イエスが伝えよう
とした神の福音を運ぶ人として、今度は弟子ではなく、使徒としての歩みを促したのです。
使徒聖ペテロはローマで、イエスと同じように殉教しました。このペテロがローマの初代司
教で、今のローマ教皇はペテロの後継者です。宗教の世界で最も影響力のある最初のロー
マ教皇は高学歴の人ではなく、漁師出身の人物でしたが、苦労の多い人生を歩みながら、人
間味溢れる、偉大な司教へと成長したのです。
置かれている場が全く違いますが、私たちは、単に、そこに居るというだけではなく、自分
が他の人から期待され、必要とされている人間であることへの自覚が必要です。そのために
は、多くの挫折や失望を経験しなければなりませんが、その積み重ねによって、「らしさ」に
磨きがかけられ、人間としての厚みや深みがでてくるのです。このような生き方こそ、神に祝
福された人生となります。(2016年度中高生大会聖餐式説教抜粋)