アンデレ便り:3月号 朽ちない冠
「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」 (1コリント9:25)
祈れない私
その昔、コリントは「オリンピック」に対抗して「イストミア」という競技会を主催していました。出場する選手は約10か月間の合宿生活で、現在でもこの伝統を唯一守っております、マラソン優勝者に与えられる冠の栄誉を獲得するために日夜、自己節制と厳しい練習に励むのです。
栄えある優勝を勝ち取りますと、冠と人びとの賞賛の言葉が市民から贈られます。しかし、その冠は、時の流れとともに次第にしおれて朽ち果ててしまい、栄誉も人びとの記憶から遠のき、最後には忘却の彼方に消え去るのです。このことを端的に表している例が、イエスが生まれた時代に「ローマの平和(PAX ROMANA)」を実現し、偉大な人物といわれたローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(ルカ2:1)です。しかし、永遠に不滅であると思われたローマ帝国を象徴するこの皇帝は、帝国滅亡とともに次第に忘れ去られ、今では8月のカレンダーにその名をとどめるだけです。中近東風に表現しますと「昔の栄華は人間の悪によって砂漠に埋もれてしまい、そこを掘り返さない限り、何が重要であったかがわからない」ということです。一方、「地に平和(IN TERRA PAX・ルカ2:14」をもたらすためにお生まれになったにもかかわらず、僅かな人だけしかその誕生を祝わなかったイエスは、その名を知らない人を探すのに困難なほど今日では有名になりました。人が生きるための普遍的なメッセージがイエスの言葉と生涯に表現されているからです。
私たちキリスト者は朽ちない冠を得るように日々精進します。この冠は信仰生活の最後の時、あるいは自分の努力が結実した時に獲得できるものではありません。もしもそうであるならば、キリスト教は御利益宗教と化します。幸せになるための処方箋を作ってそれを配ったり、あなたが不幸なのは精進が足りないからだなどと言って、信仰を個人救済のみに限定して、人間や自然、社会と共存しなければならないキリスト教会本来の姿を曖昧にしてしまうのです。
私たちの信仰の鍛錬には目標があるようで実はないといえます。それによって他人に喜ばれ、自分も満足が得られるいう種類のものではないからです。最善を尽くした結果が、神さま御自身が思っておられることと同じであろうとする努力が信仰の鍛錬なのです。従って、祈りなくしては神の御心を知ることはできません。とはいえ、祈ろうとしても、妨害する者が待ち受けており、人の心に訴えかけて、様々な理由を列挙しながら本当の祈りに至るのを阻止するのです。
「祈る必要はどこにあるのですか。あなたの能力と努力によって今日まで事はうまく運んだでしょう。」「解決すべき問題は確かにあります。しかし、そこには様々な障害が横たわっており、それによってあなたは相当辛い思いを経験しなければなりません。ですから、このままで良いのです。」「どうしてあの人はあなたを悪くいうのでしょう。このことを友人に言って自分を正当化しなさい。」「自分の思いや願いを阻止しようとする人に抗議しなさい。それであなたは満足するのです。」 このような雑念を吹き込んで、うわの空でしか祈れないように誰かが仕向けるのです。「祈りの精神」という本でF.Tフォーサイスが言っているとおり、「最悪の罪は祈らないことである。キリスト者のなかに誰の目にも明らかな罪、犯罪、言動の不一致を見ることは実に以外であるが、これは祈らない結果であって、祈らないための罪である。神を真剣に求めない者は神から取り残される。」のです。でも、これらの雑念を通して、自信過剰、臆病、「妬み、争い、中傷、邪推(1テモテ6:4)など、醜い自分の実態を克明に表していることを神は教えてくれるのです。かつて記者がラムゼー・カンタベリー大主教に朝の黙想について訊ねた答えは「今朝は30分黙想しましたが、神様に会えたのはたったの1分だけでした。」
キリストの約束
神戸聖ミカエル大聖堂では毎日、神戸教区関係逝去者のための聖餐式を毎朝午前7時に献げております。1999年、私はこの教会牧師に就任しましたが、健康維持のため午前6時過ぎに起きて、相楽園の周りを散歩するのが日課となりました。しかし、何か物足りないのです。30年前、英国ケラム神学校で学んだ記憶がよみがえってきました。神学校生活の中心は定時に献げる礼拝(office)であったのです。例えば、夕食が終わるのは午後8時頃ですが、その後は自由時間です。学生の多くが、学校の向かいにThe Fox Innというパブに駆け込み、ダブル・ダイヤモンドという銘柄のビールを飲むのが楽しみの一つでした。ところが、お酒を思い切り飲み、そのままベッドに直行ということは許されません。午後9時半からコンプリン(就寝の祈り)が待ち受けており、朝食時まで沈黙厳守が規則として定められております。従って、神学生は時間を気にしつつ、ぎりぎりまで酒を飲み、大急ぎでチャペルに駆けつけるということになるのです。
広島の牧師時代、宮島口で婦人会の会合がありましたが、時間前に会場に着きましたので、ホテルの喫茶店で一休みすることになりました。同席の、少々高齢の婦人がババロアを頼むのを聞き、「ばあさんだからババロアを頼むんですね」とうっかり口を滑らしました。その婦人はひるむことなく「何よ、いつも赤鼻のトナカイのような鼻をして」と反撃をくらいました。この婦人はことあるごとに私に、「先生、あなたのためにいつも祈っているからねー」とおっしゃいます。牧師は祈らないけれども信徒が祈っている。主教となったとき、少なくとも毎日曜日の聖餐式で教区の人たちに祈られ、人に祈られることへの認識を新たにするのです。修道院が典型的な例のように、好きなときに祈ればよいと思っている限り、祈る習慣が身につかないのです。
聖ミカエル大聖堂では、6時過ぎから黙想の時間を設け、午前6時半に朝の祈りを献げ、午後5時に夕の礼拝を守ることになりました。これが牧師、その後主教となった私の活動の原動力になったことは間違いはありません。私たちはキリストの約束にふさわしい者となるように召されております。この約束を遂行することが使命であり、これに生きることによって朽ちない冠の栄誉を獲得することができるのです。