アンデレ便り1月号:教区宣教140年
皆様、明けましておめでとうございます。昨年は、皆様のご支援とご協力により、大過なく過ごすことができ、新しい年を迎えることができましたことを感謝いたします。
2016年は、神戸教区にとって記念すべき年となります。140年前、SPG宣教師フォス・プランマー両司祭が神戸に上陸し、神戸教区の宣教が開始されて140年目が今年です。これを記念し、神戸聖ミカエル大聖堂で、9月22日、記念礼拝を挙行します。
1月早々に開催される記念事業委員会で具体的な事業が企画され、それが実行に移されますが、事業の目的は、神戸教区の発展のために尽力された信仰の先輩に感謝の意をあらわし、今日まで宣教の業が存続されてきたことをお祝いすることです。記念事業の目玉は、様々な事情によって記録として残すことが困難であった教区140年史の刊行です。神戸教区関係者が総力を挙げて編集作業を続けており、2017年の復活日にこれが出版されます。2016年が、これからの教区宣教に活力が与えられる絶好の機会として捉えたいと思います。
パラダイムチェンジ
パラダイムチェンジという言葉があります。パラダイムというのは、原理、原則、規範が、ある時代や集団を支配する考え方ですが、それが劇的に変化することをパラダイムチェンジというそうです。15世紀までは、地球が平面と考えられていましたのが、16世紀になって、地球は元々丸かったことが分かり、天動説から地動説に変わって、人々はショックを受けました。最近の日本ではどうだったでしょうか。
阪神・淡路大震災のとき、被災地でツーカーホン関西が携帯電話を無料で配りました。ところが、お上からストップがかかり、途中で配給中止を余儀なくされました。同じ時期、改良型のウオークマンが若者たちの間で大流行しました。電話というのは、家や会社からでしか、かけることができない、音楽も同様、定められた場所でしか聴くことができないという先入観を、技術革新によって打ち砕いてしまいました。そのおかげでしょうか、若い人たちは親しく音楽に触れることによって、音感が向上し、携帯電話普及で意思疎通が容易になり、鬱積した不満や怒りを友だちにぶつけることによって、それが憂さ晴らしとなり、暴走族が激減しました。憂さ晴らしといえば、もう一つ忘れてはならないのはインターネット普及です。そのなかで特筆すべきサイトは、2ちゃんねる掲示板です。最近は見ておりませんのでよくわかりませんが、かつて私は誹謗中傷のターゲットとなりました。この掲示板は、若い人たちのガス抜きに大いに貢献しているのは事実なのです。
歴史の中で大変動が起こったとき、その時代の人自身が変わりうる機会でもある、というのも不思議な真理です。キリスト教界でいえば、その典型はマルチン・ルターです。彼は法律家になるべく1501年にエアフルト大学に入って哲学を学び、成績優秀で、法科学院に入学しましたが、1505年、夏期休暇を終えて、大学へ向かう途中の草原で激しい雷雨にあいました。落雷の恐怖に、死すら予感したマルティンは「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫び、助かりました。
両親は修道院に入ることには大反対でしたが、マルティンは両親の願いを聞き入れるどころか、父親の同意すら得ずに大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチヌス修道会に入ったのです。それが宗教改革の引き金となりました。一方、この宗教改革に対してローマカトリック教会では反宗教改革を実施しましたが、パリ大学で哲学を勉強していたザビエルにイグナチオ・デ・ロヨラが近づいてきて説得し、7名の同志が海外宣教を目的としたイエズス会を設立し、それによって日本にもキリスト教がもたらされる結果となりました。
歴史上起こされるパラダイムショックは、人間に対しても、ある決心をさせる引き金、助走となっているのです。マイナス部分をどのようにしてプラスに転じさせるか、という姿勢がこの人たちの中に見受けられます。困難な状況を察知し、これに対してどのように立ち向かう勇気がこの人たちに備わっていたのです。私たちの教会はどうでしょうか。
多くの弱点を抱えての出発となりますが、今年一年、様々な困難に対してたち向かう勇気と力が与えられるよう祈ります。
50歳問題
週刊文春12月17日号の「阿川佐和子のこの人に会いたい」で、脳科学者澤口俊之さんとの対談が掲載されておりました。
澤口さんは、「生物学的に見て、50歳ぐらいになってくると男は、生き続けていい人と、生きてはいけない人に分かれる。私は後者なんですよ」と言います。続けて、「まだ理論段階ですね。女性はみな生きてなきゃいけないことは実証されています。・・・まず子供を作り、歳を取った後もその経験を伝えて子育てを手助けする役割があるから。男性はそれがないんです。・・・あまり変動しない社会では、『こうしたら正しい』という経験や知識を伝える人がいれば社会の繁栄に役立ちますよね。・・・これを長老効果と僕は呼んでいて、長老たりえる人は長生きしていいと思っています。」(ここで阿川さん反論)
長老になり得る人は二人に一人で、よりよい社会実現のために、自分の経験や知識を後の世代の人たちにアドバイスすることができない人は存在意義を失う、という過激な発言です。
最近余り使われなくなった言葉のひとつに、「とうがたつ(薹が立つ)」があります。「薹(とう)」とはふきやほうれん草などが花をつける軸(茎)のことで、この茎は伸びると固くなってしまい、食べごろを過ぎてしまうことからきた言葉と、辞書にあります。食べ頃とは50歳まででしょうか。50歳を過ぎると、若々しさを失う人が増える。今までの経験や知識にしがみついて、前例至上主義者となり、新しいものに拒否反応を示す人のことです。この種の人たちが、教会や社会の変革の足かせになる危険性が充分にあります。