アンデレ便り10月号:イエスを引き渡したのは誰か

 マルコによる福音書8章と9章には、イエスの受難と死の予告が載せられております。「人の子は人びとの手に引き渡され、殺される」というのが9章の表現です。「引き渡す」は「パラドウナイ」というギリシャ語が用いられておりますが、イエスを引き渡した張本人がイスカリオテのユダでした。 
    

 ユダの悲劇

 ユダも、他の弟子たちと同様、イエスの呼びかけに応えてイエスに従いました。ところが、寝食を共にするうちに、自分の思い通りにイエスが行動してくれないことに失望して苛立ち、夢に描いていた将来にも暗雲が立ちこめてきたのでしょうか。イエスに対する熱い心が次第に冷めると同時に、物事を損得勘定でしか計れないという生来の性格が頭をもたげ、イエスに対する憎しみが相まって、お金をごまかして土地を買って将来の備えとし、銀貨30枚でイエスを宗教指導者に売り渡したのです。しかし、その行為には重大さが感じられず、イエスが逮捕され、それによって苦しむ様を見て、ざまあみろという満足感を得るというのが、本来の動機であったのです。ところが、最高法院がイエスを死刑に処することを決定し、ピラトに引き渡されたとき、初めて、自分のしたことの重大さに気づき、銀貨30枚を返そうとして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました(マタイ7:4)と宗教指導者に言って、イエスの釈放のために尽力してくれるよう懇願しますが、聞き入れてもらえず、絶望して自死するのです。

営利栄達を望む弟子たち

  カファルナウムの、多分、ぺトロの家で一息ついていた時、イエスは弟子たちに、ここに来る道中、何を議論していたのかお尋ねになりました。それは、「だれがいちばん偉いか」というものでした。言いかえれば、誰が一番能力があるか、という議論です。弟子の多くは元漁師です。日本のように、漁師それぞれが船を持っていて漁を競えば、どの漁師が一番能力があるのかが比較できます。ガリラヤ湖で、協働しながら網を打つという漁法では、誰が一番能力があるのかの判定は難しいことになります。弟子たちは、かつての職業に照らし合わせて、その能力を競おうとしたのでしょうか、よく解りません。
  イエスは、偉くなりたい人は人に仕える者とならなければならないとおっしゃり、幼子の手をとって真ん中に立たたせて抱き上げ、この幼子を受け入れる者が私を受け入れるのだ、と言われました。子どもは弟子たちの誰よりも能力が劣っております。ユダヤ人の間では、子どもは一人前の子どもではなく、半人前の大人でした。律法を正しく理解できなかった からです。しかし、神の前では、能力によって人間の優劣を判断することはない、とイエスは言われました。

神が解らなくなった弟子たち

 最後の晩餐の後、イエスは服にたすきを掛け、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始めました。ペテロの番になりますと、「私の足など決して洗わないでください」と言いました。しかし、イエスは、「それを拒否するとわたしはあなたと何の関わりもなくなる。私が足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃいました。では、イスカリオテのユダの番になったとき、イエスは素通りして次の弟子のところにいったのでしょうか。裏切り者のユダの足も洗ったのです。イエスの、他者に対する愛は私たちの思いを遙かに超えております。振り返って、私たちの心の思いと行動が、このような極みまでに到達することができるのでしょうか。
  弟子たちは、イエスが逮捕されたとき、イエスにつまずきました。なぜなら、イエスという人が全く理解できなかったのが最大の理由です。従って、イエスが「あなた方の中の一人が、わたしを裏切ろうとしている」(マルコ14:19)と言われたとき、弟子たちは皆非常に心配して、「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねました。このように、誰でもがその裏切り者でありうるし、ありえたということになるのです。本日の旧約聖書、続編 知恵の書2章16節以下を読んでみましょう。
  「神に従う人の最期は幸せだと言い、神が自分の父であると豪語する。それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ。・・・・・・彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。神を信じない者はこのように考える。」
  イエスが逮捕されたとき、人間の当然の権利として、自分には何の罪もないことをピラトの前で弁明すればよいのに、沈黙を守り、成り行きに任せたのです。一方、弟子たちは、何故、イエスがそのような行動にでるのか、どうしても理解できず、神への信仰を失いかけました。デ・メロ神父が記した「沈黙の泉」という本の中に次の一節があります。
  「もし、あなたの神が、困ったときにやってきて、あなたを救いだしてくれたなら、そのときこそ、本物の神を求め始めるときです。と導師は言い、次のような話をしました。  ある男が買い物に出かけた折りに、市場に新品の自転車を置きっぱなしにしてしまいました。翌日、男は自転車のことに気づき、もう盗まれてしまったに違いないと半ば諦めながら市場に走って行きました。はたして、自転車は、前日置き去りにしたままの場所にありました。うれしくてたまらなくなり、男は自転車のことで神に感謝しようと、近くの寺院に駆け込みました。祈りを終えて寺院から出てみると、そこにあった自転車がなくなっていたのです。」
  神は、私たち人間にとってどのような存在となるのでしょうか。この問いかけから、本当の神さまを把握する道が開始されていくのです。