アンデレ便り6月号:愛する存在の喪失

 イエスが逮捕されて判決を受け、死刑に処せられましたが、弟子たちは、自分たちの弱さと醜さをいやというほど思い知らされました。同時に、自分たちが想定していた未来がこなごなに打ち砕かれ、神への信仰がなくなるほどの危機的状況に陥っていたのです。
    

 ふるいにかけられる信仰

 自分たちのふがいなさは否定しようがないとしても、イエスを死におとしめた神の御心が解らないのです。ところが、イエスは弟子たちがこのような状態になることを予測していたのです。
  「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31以下)」
  「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」とイエスはおっしゃいましたが、旧約聖書ヨブ記で、「地上で彼(ヨブ)ほどの者はいまい。無垢で正しい人、神を畏れ、悪を避けている(ヨブ記1:8)」と神がサタンに自慢したとき、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。・・・・・・この辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません(ヨブ1:10以下)」、ということで、サタンは、ヨブの財産、持ち物などすべてを奪ったのです。
  「ちょっとふるいにかければ信仰がなくなる。」 自分たちの心の支え、人生のよりどころであったイエスが十字架で死ぬことによって、弟子たちはふるいにかけられ、信仰だけがふるいに残るどころか、それも地上に落ちて消滅寸前の状態です。

愛する者の死と神の御心

 「ナルニア国物語」や「キリスト教の精髄」を書いたCS・ルイスは、60才の頃、アメリカ人のジョイという女性と結婚しました。ところが、しばらくしてジョイが癌に冒されたことが判りました。ルイスは、これほどまでに自分が愛してやまないジョイはきっと、癌を克服して死を免れるだろうことを確信していました。しかし、ルイスの望みもむなしく、ジョイは死んでしまったのです。ルイスは、キリスト教について多くの本を書いておりますが、ジョイを失ったとき、神さまとは慈愛に満ちた父であるのか、それとも、生きたまま人間を切り裂く残酷な存在なのだろかという疑問を持ったのです。ジョイが生きて自分の側にいてくれる、ということがルイスにとって何よりも大切なことであったからなのです。
  ルイスは日記の中で、「結局、人間は神について何も分かっていないこと、神について私たちが質問する内容さえ神にとっては意味のないものであるということに気づかされました。」と告白します。

  5月11日から10日間、ポーランドを訪問しました。聖母の騎士修道会本部を訪問した後、アウシュビッツ収容所を見学しましたが、ナチス・ドイツを批判してここに収容された、聖母の騎士修道会のコルベ神父のことについて思いをはせました。  1941年の7月末、収容者の一人が脱走を試み、行方不明になってしまいました。見せしめとして、10名を選んで餓死室に送り込むために、居住区の収容者が外に出され選別が開始されました。その中の一人に、ユダヤ人レジスタンスをサポートしたガイオフニチェク軍曹が名指しされました。しかし、彼は「自分には妻や子どもがいるから勘弁してください」とドイツ兵に懇願します。その時、コルベ神父が「私はカトリックの司祭で、あの人の代わりに死にたいと思っております。私はもう若くはありませんが、あの人には奥さんと子どもがいます」と、身代わりを申し出たのです。これが聞き入れられ、神父は餓死室に送り込まれ、8月14日に天に召されました。47才の生涯でした。
  ガイオフニチェクのグループ500人のなかで、生き延びたのはわずか23人でしたが、彼もその一人となり、故郷に帰りました。出迎えた妻ヘレナから、2人の息子は1945年のソビエトロシア軍のポーランド爆撃により、亡くなっていたという訃報を聞かされ、ショックを受けます。自分の代わりに死んだコルベ神父の愛の行為は、全く無駄ではなかったのかという疑問が心を覆い尽くしたのです。そして、コルベ神父の願いを叶えてくれない神の存在そのものにも疑問を持ち、苦しんだのです。

苦難とよろこびの顔

  イエスが誕生したとき、ベツレヘムに生まれた2歳以下の男の子が殺されました。では、この幼子は何のためにこの世に生を授かったのでしょうか。生を受けてすぐに命を失うために、生まれたとしか思えないのです。加えて、イエスがこの場所に生まれなかったならば、このような残酷な事件は起こらなかったという恨みや、嘆きの叫びの声があがったのです。
  聖母の騎士礼拝堂の会衆席の天井に一枚の絵が掲げてありました。そこには、幼い子どもを抱えた母親や喪服姿の女性、老人、そして、涙を流している女性がイエスの十字架を仰いでおります。コルベ神父には、将来、ガイオフニチェクにどのような運命が待ち受けているか、分かるはずはありません。しかし、神父は、ガイオフニチェクの苦しみ、悲しみを自分のものとして受けとめ、同胞のために自分を献げたのです。  自分たちの心の支えであったイエスが、不条理なかたちで取り去られました。その死を思い巡らすとき、この世界で起こる様々な苦しみ全てを一身に背負って十字架で苦しんだのがイエスであったことを弟子たちは理解するに至りました。
  弟子たちは怖じ気づき、不信に陥り、役立たずの人間になってしまいましたが、そのような状態から這い上がり、より広い世界で罪や苦難の問題についてなんらかの答えを見いだしたのです。弟子たちは、復活日の夕方、活きている神の顔が自分たちに向けられるのを見ました。それは、苦難と喜びを経験した人間イエスの顔でした。