アンデレ便り5月号:三重の苦しみ (4月19日、桑原司祭、通夜の祈り教話)

   ヨハネ桑原一郎司祭は、昨日午前1時に入院先のアガペ甲山病院で天に召されました。80歳の生涯でした。

 愛する者の死

 桑原司祭は、鳴門聖パウロ教会を皮切りに、神戸聖ヨハネ教会、広島復活教会、そして神戸昇天教会で定年を迎えました。私との関係では、17年勤務した広島復活教会と牧師を交換するかたちで私が須磨に行き、桑原司祭は広島に赴任しました。須磨の教会には日曜学校があり、その先生が、市内の幼稚園に奉職しておられた桑原栄実さんでした。オルガンを弾き、聖書のお話をしてくださり、我が家の4人の娘たちは栄実さんに大変お世話になりました。
  栄実さんは、毎週土曜日、オルガンを練習するのですが、小学生の娘、ゆかりが忍び足で二階の聖堂にあがり、後ろから「わー」と言って驚かすのです。普通なら、2,3度で慣れるはずなのですが、毎回、びっくりして声をあげる栄実さんを娘は面白がり、それを楽しみにしておりました。しばらして、日本基督教団の大塚牧師と結婚するために、高知に転居しました。それから10数年後、桑原司祭の生涯のなかで一番つらくて悲しい出来事が起こったのです。栄実さんが公園で子どもさんとかけっこをして突然倒れ、そのまま息を引き取ったのです。幼い子ども2人が遺されました。
  愛する人たちにどのような運命を授けるのか、神の御心は私たちにとって計り知ることが出来ません。桑原司祭ご夫妻初め、関係者にとっては、胸が張り裂けるほどの苦しみが襲ってきましたが、桑原司祭は多くを語りませんでした。

病い

  主教となって1年後、桑原司祭は定年退職しました。当時、神戸教区には聖職の数が少なく、多くの教会では毎日曜日の聖餐に預かることができない状態が続いておりました。そこで桑原司祭に、松江の教会が困っているので、行って貰えないだろうかと打診したところ快諾してくださり、月の半分を松江で過ごすことになりました。
  2年が過ぎました。ところが、車の運転の仕方がおかしいと、見送りの信徒の方々は危惧しました。予想した通り、体の状態が目に見えて悪化し、松江勤務を断念せざるを得なくなりました。病名は水頭症で、記憶が徐々に失われるという事態となり、奥様の介護なしには生活できなくなったのです。
  私の広島時代、聖母幼稚園に娘たちがお世話になった当時の園長は早副譲神父でした。 元気はつらつとした神父でしたが、加齢と共に、桑原司祭と同じように他人の介護なし に生活できない状態に陥り、外出するときには常に信徒の方々が付き添っておりました。 神父は「私もこの年にこのような状態になって初めて、赤ちゃんイエスの心境が分かる様になりました。自分では全く何もすることができません。」と私におっしゃいました。
  桑原司祭も、奥様や信徒の介助によって日々の生活が支えられてきたのです。桑原司祭に対する行為は、イエス誕生をお祝いするためにかけつけた羊飼いや三人の占星術の学者の姿と重なります。

再びエデンの園へ

 桑原司祭は、今、新しい天、新しい地に向けて旅立ちをされました。
  ヨハネ黙示録21章では、「最初の天と最初の地は去っていき、新しい天と新しい地を見た」と黙示録作者は述べております。神戸は20年前に大震災に襲われ、数十秒の揺れによって街は揺さぶられ、古いものほど激しく破壊されました。しかし、震災後、多くの人たちの努力と汗により瞬く間に神戸の街は復興されました。古いものが壊され新しくされたのです。
  この「新しい」というギリシャ語には、「カイノス」と「ネオス」という2つの表現があり、ニアンスが少し異なっています。新しい年という言い方では「ネオス」を使います。これは確かに新しいのですが、時の経過と共に古くなってしまうという新しさなのです。これに反して、「カイノス」は絶対的な新しさを表現します。このような世界を黙示録の作者は描いております。新しい天地では、神が人と共に住み、生前、その人生で経験した苦しみによって流された目の涙を神はことごとくぬぐい取ってくださるのです。そこには、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もないのです。人生に於ける全ての悩み、苦しみが浄化され神さまの祝福と恵みが一杯に満たされるのです。
  桑原司祭の遺骨が安置されるミカエル大聖堂地下の納骨堂には、来年、南北の窓にステンドグラスが設置されます。そのなかの一つのテーマは「回復されたエデンの園」です。神の御心に反した行いによりエデンの園を追放されたアダムとエバには、人間が有限な存在であることの厳然な事実である死が定められました。私たちも様々な限界のなかに住み、苦しみ悶えております。桑原司祭は、愛する者の死、病い、そして、キリストの福音を人びとに宣べ伝える困難さを身をもって体験されたのです。
  聖パウロがコリントの信徒に告白しましたように、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいから(コリントⅡ5:4)」なのです。
  地上で体験する様々な限界によって私たちは絶望しているのではなく、それでもなお、神の御心がこの地上で実現されるために奮闘しております。死を乗り越えた復活の命にあずかるという希望を抱いているからです。復活の命は、神の似姿によって創られた人間の回復であり、罪・混沌・死へと進んでいく人間の宿命から、本来あるべき生き方への方向転換となり、キリストを通して自然や人間の再統合がエデンの園で再び実現されるのです。
  「アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人がいかされることになるのです。(1コリント15:22)。」