アンデレ便り1月号:祈り・断食・喜捨
教区の皆様、明けましておめでとうございます。主教に按手されてから10年が過ぎましたが、信徒・聖職のご支援とご協力により、不十分な点は多々ありましたが、主教としての職務を今日まで遂行することができましたことを、深く感謝申し上げます。
教区は2016年に宣教140年を迎えますが、記念礼拝を2016年9月22日(木・秋分の日)に実施する予定です。私たちは、この日に向けて様々な準備に取りかかる必要に迫られておりますが、そのなかの一つに教区史編集があります。教会歴史に併せて、今年1年の、様々な教会行事の写真や動画を基にした教会紹介のDVDを、2016年の復活日までに完成していただきたいと思います。
祈り・断食・喜捨
昨年の12月8日、京都・大阪・兵庫3府県の基督教連合会懇親会が神戸で開催されました。今回の目玉は、ミカエル国際学校東にある神戸回教寺院と、カトリック神戸中央教会の北東に位置する、ハリストス正教会の訪問でした。改革派神学校の神学生5名と1名の信徒を加え、私たちは午後遅く、回教寺院を訪れましたが、理事長直々に私たちを待っておられ、礼拝堂に案内してくださいました。メッカに向かって全員がじゅうたんに座り、理事長から、イスラム教徒が信じ、励行している次の事柄についての説明を受けました。
イスラム教徒が守るべきこと
1. アッラーの他に神は存在しない。ムハメドはその使徒
2.1日に5回、メッカに向けての礼拝
3.喜捨(ザカート=収入の2.5%を貧しい人に施すこと)
4.断食の励行。特に断食月(ラマダン=月の日の出から日没までのあいだの断食)を守る。旅行者や重労働者、妊婦・産婦・病人、乳幼児など、事情のある場合は免除。
5.最低、一生に一度のメッカ巡礼
「うーん。イスラムの教えはキリスト教と違い、単純で分かり易いですね。若者の多くが魅力を感じ、すぐに信者になるのは当たり前かもしれませんね」「断食には縁遠いし、1日に5回も祈りを献げていない教職者である私は信仰失格者となるのでしょうか。」などの声が周りから聞こえました。では、2,3,4の戒律に関し、聖公会員はどれくらい、これらを励行しているのでしょうか。
私自身のことをいいますと、昨年、断食を守ったのは大斎始日と受苦日だけです。これに加えて1日断食しましたが、これは不測の事態が発生したからです。小斎(一日1食を抜く)らしきものについては、約10日は実施したでしょうか。朝・晩に費やす祈りの時間には問題はないと思いますが、祈りの時刻配分に工夫が必要だと思っております。
イスラム教の戒律は、ユダヤ教のそれとよく似ておりますが、ルカ福音書18章のファリサイ人と徴税人が神殿で祈る場面を参考にし、2000年前、イエスは戒律を遵守してやまな いファリサイ人や律法学者の姿勢のどこに問題があったのかを、考えてみたいと思います。
人に見せてはいけない善行
神殿の前の方に立ったファリサイ人は、流し目で徴税人を見たあと、自分が徴税人のような者でないこと、律法に従って、神への祈りを欠かさず、1週間に2度断食し、全収入の10分の1を献金していることへの感謝の祈りを、神に献げています。一方、徴税人は神殿から「遠くに立って、目を天に上げようともせず・・・・・・神さま罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。神に義とされて家に帰ったのは、ファリサイ人ではなく徴税人であるとイエスは言いました。
ファリサイ人のような人物を、今日のキリスト者と置き換えて想像してみましょう。毎主日の礼拝には欠かさず出席し、十分に献金をし、節制を旨とする生活態度は、どこを見ても非の打ち所はありません。教会ではきっと、信徒の模範となるべき人物と見なされることは間違いないでしょう。ところが、その行為の裏付けとなる人間の内面をイエスは問題視するのです。山上の垂訓(マタイ福音書6章)のなかで、祈りと断食と施しに関し、イエスが警告しているのは、
•祈 り 奥まった自分の部屋で「隠れたところにおられるあなた方の父に祈りなさい」。
•施 し 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。右の手のすることを左の手に知らせてはいけない。
•断 食 偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。あなたは断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。
キリストに似る者
あるプロテスタント教会では、会堂建築を教会総会で決議し、募金が開始されましたが、思うようにお金が集まりませんでした。教会の役員会では、会堂建設を後回しにし、教会よりもさらに老朽化していた牧師館建築を決定しました。牧師館も教会の宣教活動のために必要不可欠と考えての判断でした。その後、正当な手続きを踏みましたが、信徒間ではこのことが周知徹底していなかったようです。2,3の信徒が牧師館建築に異を唱えました。「自分の家より豪華な建物で、牧師一家はぬくぬくとした生活を送るのはけしからん」という思いもそこにあり、自分たちが献げた献金は、会堂建築のためであったが、それが実行されなかったので献金を返してくれと言い出したのです。結局、それが聞き入れられ、お金が戻ったということです。
では、この人たちはどのような思いで施し(献金)をしたのでしょうか。「右の手のすることを、左の手に知らせてはいけない」というイエスの警告を、どのように自分の事柄として捕らえ、理解していたのでしょうか。
イエスは、自分に対しても自分の義を見せるな、隠しなさいと勧告します。たとえ自分の善行が他の誰からも評価されなくても、自分はまんざらではないと、自分の善行を自分で褒めてはいけないのです。
祈り・断食・施しの動機は、他者から称賛を勝ち取るものではなく、神の誉れのためにそうするのです。善行によって、神がいっそう自分の近くにおられるという親密感が与えられ、キリストに似る者としての喜びが心に満たされるのです。
「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:20)」のです。