アンデレ便り11月号:済州島と生野
晴天に恵まれた10月19日(日)、神戸聖ミカエル教会の礼拝に参加した後、「国際協力の日」が開催されている大阪玉造のカトリック聖マリア大聖堂に向かいました。大聖堂駐車場を会場にして、フィリピンやペルー、ブラジル、韓国など、それぞれのお国自慢料理が軒を連ねて私たちを待っており、舞台では、国際色豊かな踊りや歌が披露されております。駐車場での朝のミサには、700名以上の人たちが参加したそうです。
関西外キ連の李清一さんご夫妻と昼食をいただきながら、日韓共同30周年記念大会出席のため明日、済州島に行くことを告げますと李さんは、「済州島のアワビは格別ですよ」と教えてくれました。
済州大学へ
次の日早朝、瀬山会治司祭と一緒にポートアイランドに行き、高速船に乗り込みました。済州直行便には、渋沢主教、大西主教そして主教被選者磯司祭はじめ、中部・京都・大阪各教区の、10名以上が同乗します。この島で十分に満喫して帰国するようにとの配慮なのでしょうか、関空と済州島往復便は早朝と夜です。約1時間半で済州島に到着しましたが、会議開始は午後6時ですから、それまでの8時間をどのようの過ごしたらよいのでしょうか。パスポートコントロールを出ますと、大阪教区の人たちがイスに座って誰かを待っている様子です。大西主教に、済州大学に一緒に行きませんかと誘われましたが、その時、生野センターの呉光現さんがひょっこりと登場、私たちもご一緒させていただきました。呉さんが「昼食、何を食べましょうか」と訊きますので、すかさず「あわび」と答えました。反対意見はありませんでしたが、昼食代を払うのは一体誰なのでしょう。総勢9名がアワビの刺身と海鮮鍋、アワビ粥に舌鼓を打ち、済州大学に到着、私たちが訪れたのは在日済州人センターでした。
建物は2012年5月に完成しましたが、大阪生野で財をなした済州人が寄贈したそうです。ここには、済州島から関西に渡った人たちの100年間の歴史を保存する資料が収集されており、なかを見学して初めて、大阪の在日韓国人の90%が済州島からであることを知りました。センター設立の目的は「済州出身の在日同胞がこれまで故郷済州に対して示してくれていた愛情と献身を顕彰し、済州に住む私たちと在日の彼らとの意思疎通と交流を強化することによって、次第に手を携え済州人として一体となれるように、その媒介の役割をはたすこと。」なのです。主要産業がほとんどなかった済州島民は、自活することが非常に困難な状態におかれておりましたが、1922年に済州ー大阪間の定期航路が開設されて以来、多くの島民が関西地方に向かったのです。
在日済州人の恩返し
現在、済州島の経済を牽引する2大産業のみかんと観光は、在日済州人たちの支援で発展したのです。みかんに関しては、在日済州人たちがこの島に送った日本みかんの苗木がかたちをかえて「済州密柑」のブランドとなりこれが大ヒット、1970年代には「大学の木」「黄金の木」と呼ばれたのです。みかんを栽培すれば、子どもたちを大学に進学させることができるという意味です。
小学校の頃を想い出しました。北に向かうB29の編隊が発する轟音のなか、韓国・朝鮮人が住むバラックが延々と立ち並ぶ下関港近くの場所を訪れた光景が今でも脳裏に焼き付いております。父が牧師をしていた下関の教会にも済州島からの人たちが出入りしていたようです。当時、我が家は極貧状態で、とうとう、明日のおかずを買うお金も尽きてしまいました。母親はその夜、独り神に祈りを献げていたのですが、外に人を気配を感じて戸を開けてみますと、韓国からの人が、魚をぶら下げて立っていました。私たちの窮状を見かねて差し入れを持参したのです。我が家も済州島出身の人に助けられました。母親は何度も「祈りは必ず聞かれる」例として、私たちにこの話をしておりました。
4・3事件の悲劇
大会最終日の10月23日(木)午前、済州4・3公園を訪れ、地域別、村別に犠牲者約1万4千人の名前が刻まれております位牌奉安所の前で、4・3事件犠牲者のため、祈りを献げ、「済州4・3平和記念館」を見学後、ホールでも犠牲者のために祈りました。
1948年4月3日にアメリカ陸軍支配下にある済州島で起こった島民の蜂起にともない、国防警備隊や韓国軍、警察、そして右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に島民を虐殺し、その数は2万5千から3万人といわれております。この事件は、北緯38度線で朝鮮半島を南北を分割するのか、あるいは統一された独立国家樹立を目指すかの争いであり、分割に反対する済州島の人たちを共産党やその支持者とみなしたのではないでしょうか。1949年の中国大陸における共産主義政権の成立や、ベルリン封鎖などの世界情勢により、共産党の脅威にたいして、共産党及びその支持者を撲滅する運動、レッドパージがアメリカや日本で吹き荒れた時代です。釜山の朴主教は、これはイデオロギー事件であるとおっしゃっておりました。
「左派の団体である、『人民委員会』『南朝鮮労働党』『民主主義人民戦線』、をはじめとする青年団体、一般民衆と、右派の団体の西北青年団をはじめとする青年団体、国防警備隊、警察などの李承晩・米軍の支援する権力側が相対する構造になっている。4・3事件において、親日派とその統治体制の残滓を擁護し、反共イデオロギーの元に共産主義だけではなく、統一、反米の考えを持った人々や一般の市民を弾圧し、次第に対立は激化していった(村越理)」のが事件の発端となったという見方です。
東日本大震災に際しては大韓聖公会から多くの人たちが救援にかけつけ、被災者の苦しみと悲しみに接しました。300人以上の死者・行方不明者を出した韓国の大型旅客船「セウォル号」沈没事故により、遺族はじめ多くの人たちは今も悲しみに暮れております。日本と韓国の間には歴史認識など、大きな溝が横たわっておりますが、悲しみや苦しみの共有が和解と赦しの第一歩となることを再確認したのが、今回の大会でした。