アンデレ便り7月号:福音に忠実に従う道を選んだ右近

 6月17日(火)から19日(木)まで、教役者修養会が六甲山ホテルでもたれ、現役教役者23名、退職教役者4名、計27名が参加しましたが、教員職及び海外出向者を除き、教区の教役者全員が参集できました。修養会講師には、高山右近列福特別委員会委員長で、カトリック芦屋教会の川邨裕明神父をお招きして「高山右近とキリシタン大名」についてのお話を伺いました。
  「ユスト高山右近ーいま、降りていく人へ(古巣馨著)」「キリシタン禁制史(清水紘一著)」を事前に読みましたが、列福委員会作製のDVD上映や川邨神父の話を伺いながら、最期まで自分の信仰を貫き通した高山右近の信仰の姿勢から、多くを学ぶことができたことに感謝いたします。今月は、前掲書を引用しながら、高山右近の生涯と信仰の姿勢について学んでみたいと思います。

荒木村重事件

 今、NHKの大河ドラマで「黒田官兵衛」が放映されておりますが、1500年後半は、多くの大名やその家臣がキリシタンに改宗しました。織田信長は西洋文化に大変興味をもったこともあり、キリスト教には好意的な態度を示しており、高山飛騨守が1563年にキリシタンに改宗したとき、その子右近や家臣150名なども洗礼を受けました。それから10年後、父の隠居によって右近が高槻城主になりましたが、摂津の国を治め、右近の主君であった荒木村重が右近を窮地に追い込んだのです。
  荒木村重は織田信長の気質や振る舞いに危機感を抱き、石山本願寺や毛利輝元と手を結び、周辺の大名の説得にも耳を貸さず、織田に反旗を翻してしまったのです。この報に接した織田信長は、右近の高槻城を攻めますが、なかなか落城しません。業を煮やした信長は、使者を遣わして、村重にかかわらないことこそキリシタンの教えにかなうこと、もし命令に背けば教会を破壊し、キリシタンを皆殺しにすることを伝えましたす。
  右近は村重への忠誠にしるしとして、妹と長男を人質として差し出しており、信長に従えば、人質は殺されることになります。父親といえば、高槻城開城に反対の立場をとっているのです。進退窮まった右近は、ひたすら祈り、神に問い続けました。この祈りによる決断は、信長と村重の心に必ず届くと堅く信じていたからです。
  右近は信長に面会し、城を明け渡すことを告げました。一方、父親ダリオは伊丹の有岡城で村重と会い、右近が開城したことにたいして許しを請い、自分が右近に代わって村重のために戦い、死ぬ覚悟であることを表明しました。村重は激怒しますが、高槻城が落ちたことにより、もはや勝算はないことを悟り、人質の妹と長男を右近のもとに送りかえした後、信長に降伏しましたが、自身は城を抜け出し、逃亡しました。
  容赦しない信長は、村重の妻子や親族など600名を見せしめのために殺し、村重側についていた飛騨守も殺すように命じました。それを何とか阻止しようとして、身代わりを申し出た右近の説得が功を奏し、信長は処刑を思いとどまり、飛騨守を越前の柴田勝家に罪人として預け身にする決定を下しました。追放の地で飛騨守はイエスの福音を説き続け、教会も建てられて、「越前の使徒」と呼ばれるまでになりました。
    本能寺の変により、豊臣秀吉の時代を迎えました。当初、秀吉はキリスト教に対して信長のように好意的態度を見せておりましたが、1587年7月24日夜、突如バテレン追放令を発布したのです。

棄教を拒んだ右近と400年後の日本

 発布の直前、秀吉は右近のところに使者を送り、信仰を棄てるよう詰問状を突きつけました。しかし、右近はこれを拒否しました。今度は茶の湯の師匠千利休を送り、従わないときは領地没収の命を伝えます。しかし、右近はこれも拒絶し、全てを棄てても、キリスト教信仰を貫き通すといったのです。秀吉は右近を罵った挙げ句、全ての領地を没収し、追放処分としました。四国平定で武功を挙げ、明石城に移っていた右近は、棄教を拒んだ故に流浪の身となったのです。1614年のキリシタン禁令により、左近は金沢から長崎に送られ、そこで国内退去が言い渡されました。
  1614年12月1日、家族8人と共に長崎からマニラに向けて出航しますが、到着後重い熱病にかかり、翌年の2月3日に異国の地で息を引き取り、波瀾万丈の生涯を終えたのです。
  徳川幕府が倒され、日本人に信教の自由が獲得されましたが、日清戦争、日ロ戦争を経て、天皇制国家体制が次第に強化され、再び、教会は苦難の時代を経験することになります。しかし、1500年代、キリシタン大名や家臣の多くが貫き通した信仰を正しく継承したとは言いがたい状況下のなかで、日本は敗戦を迎えたのです。
  占領下の日本は一転してキリスト教大歓迎となり、400万人以上に人たちが教会の門をたたいたといわれます。残念ながら、日本が経済発展を遂げるとともに人びとの教会離れが進み、今日に至っています。私たちにはこのような時代にあって、何が求められているのでしょうか。
  「父である神よ、現代に生きるわたしたちが、あなたの忠実なしもべユスト高山右近にならって、み名を知らない人びとに福音のあかしができるよう、ゆるぎない信仰と勇気で満たしてください」              (右近の列福を求める祈りより)

サイモン・ロー司祭活躍

 4月16日に韓国の旅客船セウォル号が沈没し、約300名が死亡するという大惨事となりました。船が転覆しつつあるとき、船長以下22名の乗組員は乗客を船のデッキに誘導し、下船させる義務を負っていましたが、船長はじめ乗組員の多くは自分かわいさのあまり、乗客を見捨てました。このようななか、釜山港のMtSチャプレン、サイモン・ロー司祭は、釜山の船員協会に呼びかけて有志を募って現場に駆けつけ、救助された人たちや、愛する人たちを失って嘆き悲しむ遺族の心のケアーを実施しました。サイモン司祭は、昨年の9月23日と今年3月21日、神戸教区聖職按手式に出席した方です。