アンデレ便り3月号:本当の自分を知る機会に

 3月5日(水)には、40日間の大斎を迎え、多くの教会では大斎始日礼拝を守りますが、司式者は、「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」と言いながら、参加者の額に灰のしるしをつけます。
  額の灰は、私たちが塵であることを再確認させます。人生において今まで獲得した様々なもの、これから獲得しょうとしているものは、人生の終焉により、全て灰燼に化す運命にある類いのものだということを意味します。
  大斎の期間、最も大切なことは、自分自身がどれだけ問題のある人物かを振り返ることです。有名な宗教家の告白を掲載したいと思います。
 最初の人物は、元薬師寺貫長高田好胤師です。

 「私らは起きる前から、寝間の中で持戒波羅蜜、つまり殺生をしない、盗みをしない、みだらな男女関係を持たない、みだらなことば、嘘偽りを吐かないこと、最後はお酒を飲まないこと、これを寝間の中で誓い起きてくる。起きてくるのやけれども、寝るときになって思い返したら何一つ守られておりません。べつに私は邪淫は犯しておりませんけれども、とにかく犯すところ大であります。誓うても守りきることのできないそこに、ひとつの反省とそれにたいするお詫びの心、懺悔する心があるのです。
  朝、懺悔しないで起きた私と、懺悔をして起きた私と、目には見えないけれども、やはりどこやら心の養われかたはちごうているものを養っていただいているのです。ですから、朝に起きて戒めを誓い、夕べにいぬるときにはこれを守りきることの出来ないことを懺悔する。反省する。これが日一日の慎み深さを養うていただく道になるのではないか、と思うのです。このような宗教的な生活をしていたり、宗教的な心のある人と、宗教的な心の養われていない人とでは違うといいます。」

 二番目の人物は、昨年の3月にコンクラーベで選ばれた、フランシスコ教皇です。雑誌編集長が、不躾な質問と断り、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(教皇の本名)とは何者かと質問しました。

 「どういえば、より正しい定義であるかは知りません。私は罪人です。これがより正確な定義です。私は少しずる賢いのです。どんな環境でも適当に振る舞う術を知っています。しかし、私は少しナイーブであることも本当です。より深い心の底から起こってくることで、より真実と感じていることはこうです。主に見つめられ、私は罪人です。私は主から 見つめられている者なのです。
  私はローマに来たとき、しばしば、聖ルイジ・デイ・フランチェージ教会を訪れ、カラヴァッジョの「聖マテオの召命」の聖画を眺めて観想しました。私の心を打ったのは、マテオのジェスチャーです。自分の銭を握りしめて「ノー、まさかこの私ではない」とでも言っているようでした。「ノー、このお金は私のものだ。見よ、これこそ私なのだ。主がご自分の眼差しを向けてくださった罪人なのだ。私は罪人です。しかし、主イエス・キリストのご慈愛と限りない忍耐に信頼し、悔い改めの心をもって(教皇を)受諾しました。」

 昨年7月のある日、「今から新大阪にいる娘のところに行ってきます。」という電話が妻からありました。娘は、生後3ヶ月の三男を抱っこして自転車を運転していたのですが、前を走っていた長男が突然止まってしまったのです。それをよけようとしてブレーキをかけたのですが、自転車が傾き、赤ちゃんの頭が塀にぶつかったのです。「何で、赤ちゃんを抱っこして自転車に乗るのか。もしかして、とんでもない事態になっているのではないか」との不安感に私は襲われました。それから約2時間後「CT検査などの結果、異常はない。」との報告を聞き、ほっと一安心しました。しかしその時、心に去来したのは、「これほど孫のことを心配する私は、それ以外に人たちに同じ思いを抱いているのだろうか。まるで他人事のように思っているのでは。」という思いでした。説教などを通して「イエスが他者に対して慈悲の心をもって接したように、キリスト者はそれを模範としなればならない」と言っている本人自身に実は問題があることに気づかされたのです。

荻原一輝先生に感謝!

 去る2月2日(日)、荻原先生(医師・神戸聖ミカエル教会信徒)が逝去されました。通夜とお葬式の日は運悪く東京で主教会が予定されており、出席することができませんでした。
  晩年の先生はミカエル教会の主日礼拝後、信徒の方々や教役者に声をかけて、昼食をごちそうしてくださいましたが、食事だけではなく、そこで交わされる話が大いに楽しみでした。加えて、総勢50名位になるでしょうか、神戸伝道区の教役者家族を六甲山ホテルのバーベキューや、神戸駅近くのレストランで、神戸牛の大判振る舞いです。おかげで、教役者家族は、滅多に味わうことができない料理を堪能しました。それだけにとどまりません。2011年10月、主教会が神戸で開催された折には、ミッシェラン2つ星のステーキレストランに全主教を招かれました。主教たちは神戸ビーフを満喫し、記憶に残る主教会となりました。ご馳走と交わり、心温まる会話を私たちに提供してくださった荻原先生に感謝しております。ところで、食べ物と礼拝について最後に述べます。
  昨年の神戸松蔭女子学院大学のクリスマス礼拝は、会衆席がほぼ埋まりました。この時間帯は休講ですが、黙っているだけでは、学生はチャペルに足を運んではくれません。チャペル職員やチャプレンが呼び込みをするわけです。「皆さん、クリスマス礼拝に出席してください。」 こう言っただけでは効果はないのです。「礼拝後、学食で昼食の用意があります。福引きもあります。」 このようにして、学生は食につられて礼拝に出席し、クリスマスの祈りを献げ、メッセージを聞く機会が与えられるのです。