アンデレ便り1月号:神を証しするということ

 教区の皆様、明けましておめでとうございます。昨年中は色々と教区のためにご尽力してくださいましてありがとうございました。
  さて、2014年に横たわる様々な課題を解決するためには、私たちが持つ力を結集して、困難に向かって進んでいく熱意と勇気が求められます。熱意と勇気の根源は、神・キリストを体験することです。そしてそれを人びとに証しすることによって、教会の伝道・宣教が活性化していくことを、クリスマス物語から学んでみたいと思います。

神を証しするということ

 神の子がベツレヘムに生まれたという、神の喜びをこの世界で初めて分かち合ったのが、野原で羊の番をしていた羊飼いでした。羊飼いは私たちの国ではなじみがありませんが、中近東の世界では今でも、町や村のどこでも見かけます。その羊飼いが、自分たちの仕事として、羊を守るために寝ずの番をしていたとき、天使が現れ、神の子誕生を知らせ、その場所に行くように促します。しかし、天使の言葉を率直に信じ、言われるままに従ったわけではありません。最初は半信半疑で受け取り、「その出来事を見よう」かどうか話しあったのです。予想もしないことを聞かされ、戸惑ったり疑ったりするのは何時の時代でも同じことです。
  協議の結果、羊飼いたちは、神の喜びをもたらす救い主の誕生が本当のことなのか、実際この目で確かめるために、出かける決心をしました。そして、色々な場所を訊ね、やっと、幼子がいる家畜小屋に辿り着きました。
  そこで羊飼いが見たのは、出産の苦しみを終えたマリア、旅で疲れ果て、出産を助けるために大わらわであったヨセフ、そして、飼い葉桶に眠る幼子でした。
  羊飼いの訪問は、恐らくマリアとヨセフを驚かせたことでしょう。この人たちにどのように対応してよいか戸惑ってしまい、2人は羊飼いに対して一言も言葉を発しませんでした。
  羊飼いは、野原で天使が現れ、自分たちに告げたことが発端となってこの場所にやってきたことを、その場にいる人たちに話し出しました。
  子どもを出産するというごくありふれた出来事が、マリアに関しては、救い主・メシアを産んだという、特別な出来事であり、しかも、この人間世界に真の平和をもたらす人として来られたのだと言われても、それを聞いていた人たちはとまどってしまうばかりで、誰一人その意味することがよくわからず、不思議に思ったのです。
  羊飼いたちは、自分たちが思っていたこと、色々と考えていたことを、人びとに知らせ たのではありません。自分たちがイエスと出会うことによって大きな喜びが与えられた体 験を、人びとに知らせたのです。
  このように、信仰によって与えられる感激や喜びは、人間が納得することではありません。救い主のことを聞いて不思議に思いつつも、自分たちが体験したことを人びとに伝えること、これが、キリスト教信仰の証しとなるのです。そして、その証しはイエス誕生から30年後に実現されるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められ(ヘブライ11:1-2)」たのです。

神の御心を受け入れ、進むということ

 前の晩と同じく、この夜も、ヨセフは寝床に入っても眠ることができず、悶々としておりました。経済的には、決して豊かではなかったと想像しますが、筋がちゃんと通らないもの、人間的に見てどうしてもおかしなことに対しては、絶対に妥協はしない種類の人がヨセフです。身に覚えのない子の妊娠を発見したときの怒り、噂が広がった時に自分が置かれると予想される屈辱、マリアに対する愛が、マリアによって裏切られた怒りが次から次に、ヨセフに押し寄せてきます。婚約者は、法的にはすでに夫婦と見なされております。マリアの妊娠は明らかに、「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。(申命記22:23-24)」に該当してしまうのです。
  ヨセフは、マリアの妊娠を単に、律法に則った社会的・道徳的規範に基づく判断だけで考えれば良いと、割り切ることができませんでした。後年、イエスが述べておりますように、ユダヤ律法の背後にある根本精神は、神を愛し、人を愛することなのです。
  自分は本当にマリアを慈愛の目で見ているのか。マリアの立場に立って、マリアのこれからの人生を見るとき、律法の規範を度外視することができるのか? このようなことを考えれば、考えるほど夜も眠れないのです。
  ヨセフは、自分の思いや願いが本当に正しいのか、これから行うことが神の御心に適っているのか、反対や無視が予測されるあの人この人の顔が目の前にちらちらと浮んで、人間的な思惑に振り回されていないだろうか、それら全てを祈りを通して神に訊き、応えを一つひとつ受けとめながら、次第に自分の思いをそぎ落としていった結果、マリアの子の父親は誰かがわからないまま密かに離縁するという、最大限譲歩の結論を引き出したのです。しかし、それでも、本当に納得してはいなかった自分をどうすることもできません。ヨセフの苦悩が極限に達したとき、神さまが天使を通して介入し、マリアの受胎は聖霊によるものであると宣告し、この言葉によって、マリア妊娠の理由全てが明らかにされました。
  私たちは様々な問題を抱きながら今を生きております。教会も同様です。問題解決のために苦悩しております。しかし、ヨセフのように、悩みきったところに、神とふれ合う恵みが与えられるのです。それによって、恐れが消え去り、神と共にある人生の歩みが開始されるのです。

  2014年が皆様にとって良い年であることをお祈り申し上げます。