アンデレ便り6月号:その時、わたしは
手元に「泥まみれの死-沢田教一ベトナム写真集」があります。これは、沢田氏の友人で、神戸聖ミカエル教会信徒ナンポリアさんからいただいたものです。3,4年前、ホーチミン(旧サイゴン)にある戦勝記念館を訪れたとき、ベトナム戦争で命を落とした日本人カメラマンの多さに驚いたことをナンポリアさんにお話したとき、私にくださったものです。沢田氏は、従軍カメラマンとしてベトナム戦争を取材中の1970年10月、カンボジア領国道2号線の路上で銃弾に倒れました。
ピューリッツアー賞や世界報道写真展大賞を受賞した「安全への逃避」では、「爆撃を逃れて川を渡る2組の親子は、声を限り叫ぶ。南ベトナム中部クイニヨンの北方、ロクチュアンの村、彼らは避難を命じられたのだ。」と注釈がつけられております。
4月27日(土)、四女由香里がフランス系ベトナム人であるフランソワと神戸聖ミカエル教会で結婚しました。披露宴の最後に両家を代表して、お礼の言葉を述べる必要があり、フランソワとお母さんに、フランスに移り住むようになった理由を訊ねました。物語は、フランソワの大叔父で、ベトナムカトリック教会フランシスコ修道会ヤン修道士からはじまります。 第2次世界大戦後、ベトナムが次第に共産主義化され、それと同時に、キリスト教の弾圧が厳しさを増してきた1950年のある日、ヤン神父の前に、暗殺者があらわれました。ヤン神父は、「どうして、自分を殺しに来たのか。殺して何になるか。」と暗殺者に訊きましたが、それには何も応えることができず、去っていきました。共産主義の影響が強まるなかで、キリスト教信仰を貫くことが非常に困難であることを身をもって体験したヤン修道士は、フランスに渡ることを決意したのです。
1975年4月30日、北ベトナム軍によってサイゴン(現ホーチミン)が陥落した同じ日、フランソワの祖父母、母親フンリンさん、叔母タンビンさんは、サイゴンから船に乗り込み間一髪、脱出に成功しました。フンリンさんは25歳、タンビンさんは妊娠中でした。数百人がぎゅうぎゅう詰めの船は、シンガポールを目指しましたが、港では機関銃をもった軍隊が乗船してきて、入国を拒否されました。幸いなことに、水や食料を手に入れることができ、船はグアムに向けて出航することになりました。ここには、今でもそうですが、米軍基地があり、自分たちを難民として認めてくれるだろうと確信したのです。約1か月かかって船はグアムに到着し、上陸が許可されました。フランソワ一家は、大叔父のヤン神父がフランスにいることが幸いし、スムースにビザを取得することができ、パリにたどり着いたのです。この地で、祖父、祖母はベトナム料理店を開き、人生の再出発が始まりました。
サイゴン陥落の1975年の同じ月の1日、私は神戸聖ミカエル教会で結婚式を挙げました。 途中海賊が出現し、命までも奪われるかもしれないという不安に襲われながら、土地や 家、家財道具など、一切を捨てて未知の国目指して出立したフランソワ一家があり、一方 では、祝福に満たされるなかでの、結婚という新たな旅立ちが私にありました。 約10年後、フランソワと由香里が生まれ、由香里が大学3年の時、交換留学生としてメリーランド州タウソン大学のオリエンテーションのときにフランソワと出会い、今回の結婚にいたりました。
学生時代、ベトナム戦争に反対し、「反戦・平和」を叫び、挫折感を味わった私ですが、今、ベトナム戦争によって離散させられた人たちの歴史の一端に触れることになるとは、想像すらできないことでした。
神さまはどこに
日本キリスト教団の星野正興(まさおき)牧師が、「神さまの正体」という本を書いておりますが、その中で、地方教会の牧師であったときの体験を記しております。
ある日、教会に近所のおばあさんがやってきました。新米でモチをついかたら、神社やお地蔵さんにもお供えしたいので、同じ町内にある教会の神さまにもお供えしようともってきたのです。教会の神さまも、八百万の神々の一つと勘違いしたようです。
星野牧師はさっそくおばあさんを教会の礼拝堂に案内しました。この礼拝堂には何の飾りもありません。教団の改革派の教会ですから、恐らく十字架も燭台もなかったのでしょう。あるのは、講壇と会衆席のベンチだけです。おばあさんは困ってしまいました。つきたてのモチをどこに供えたらいいのかわからないのです。星野牧師もわかりません。困っているおばあさんからモチを受け取り、とりあえず献金用の籠を載せておく台に載せました。すると、そのおばあさんは、牧師に、「あのー、神さまはどこにおられるのですか」、牧師は「神さまはどこにもおられます」と返事しました。おばあさんは納得せずに、もう一度問いただしました。「何を拝めばいいんですか」「神さまです」「でも、神さまいないじゃないですか、どこにも。だから、何を拝んでいいのかわかりませんよ」。牧師は答えました。「教会の神さまは見えないのです。だから、教会だけにいるのではありません。おばあさんが寝ている時、その側にもおられます。今、おばあさんのすぐ後ろにも、おられるかも知れません」 おばあさんは急に「ウヒャー」という声を出して、あわてて後ろを振り向き、そして怖そうな顔をして、逃げるように帰っていったそうです。
神学生時代、月に1回程度、教役者が集い、研究会が開かれておりました。そのときのテーマは確か「日本人の宗教心とキリスト教の将来」だったと思いますが、可視的なものを求めるのが、宗教にたいする日本人のメンタリティー、ということで、ある司祭が、「もっと多くの信者を獲得するための方法は、聖公会キリスト教を捨てて、八代教にしたほうがよい」とまじめに、八代斌助主教の前で述べました。八代斌助主教は怒りを爆発させて、「キリスト教は偶像崇拝の宗教ではない」と言い、その司祭を叱責しました。
「日本で仏教が大成功したのは本地垂迹(すいじゃく)説に拠るところが大きい。『本地(根本の物体)より迹(具体的な姿)を垂れる』という意味である。キリスト教の場合、これが不徹底であった。例えばマリア様は天照大神で、神武天皇はすなわちキリストである、そこまで徹底すれば、なんとかなったかもしれない。」という小室直樹氏の主張は、日本人の宗教に対する姿勢を的確に表現しているといえます。