アンデレ便り5月号:ランドセルを背負わせる酷い人たち

 沖縄で開催された第2回世界聖公会平和会議に出席しました。2日目の4月17日(水)は、戦跡や平和祈念資料館などを訪れましたが、ガイドさんからは、68年前の沖縄戦の事実や、土地の75%を占める米軍基地について説明がありました。

重い沖縄の負担 

 バスには、韓国、アメリカ、カナダ、オーストラリアそしてフィリピンなどからの参加者もおり、大東亜戦争で日本によって占領された国の人たち、日本と交戦した人たちは、複雑な思いでガイドさんの説明に聞き入っていたようです。
  3日目以降は、「原発と軍事化」「原発と沖縄」「韓半島の分断状況」「沖縄米軍基地、平和憲法9条」についての講話がありましたが、その中で、ダグラス・ラミスさんの、沖縄の状況についての説明が誠に明快でしたので、その一部を紹介したいと思います。
  「沖縄は総人口の1%で、国土の0.6%に75%の軍事基地が存在します。これをたとえれば、クラス100名の75名分のランドセルを、たった1名の生徒に背負わすことを強要し続けてきたということになります。何十年も経ち、堪忍袋の緒が切れたこの生徒は、『いつまで私にこんなに多くのランドセルを背負わせているのです。そろそろあなたたちも、自分のランドセル背負うようにして下さい。お願いします。』と懇願したところ、『なんで私たちが、苦しみのランドセルを背負う必要があるのですか。じっとこのまま忍耐していなさい。』と諭されているのです。」

今も植民地化されている沖縄

 「4、50年前では、ランドセル全てをなくす運動が大変盛んでした。ところが、最近の99名は、熱心さに欠けているのです。なぜそうなったのでしょうか。恐らく、わずかしか、米軍基地が本土に存在しないからでしょう。現在の沖縄では、かつての「平和運動」から、「平和プラス反植民地主義運動」に変化しております。沖縄の歴史を振り返る時、沖縄は日本の植民地そのものでした。1920年の日本の地図を見ますと、日本から沖縄、台湾そして朝鮮半島は赤色で塗られており、将来占領する予定の満州国は薄い青になっております。当時の日本は、これらの国や地域の人たちに創氏改名を強要、その地域の歴史や文化、慣習を表現するための、もっとも大切な手段である言語を奪い、日本語での教育を実施しました。」
  1972年まで、いわゆるアメリカの植民地であった沖縄は、返還された後も、基地が存在し続け、植民地政策が、本土に復帰したにもかかわらず、実施されているというのが現状なのです。

平和の希求

 日本の国土を脅かす国に対し、米軍の存在なくして憲法第9条が謳う、戦争を永久に放棄し、 戦力を保持せず、交戦権を必要としない状態を維持することができるのでしょうか。自衛隊だけで、外国の威嚇に対応できるのでしょうか。
  大謝名小学校2年生の田島茉瑚さんの、「へいわってどんなこと」と題する本を読んだ感想文が平和祈念資料館1階の廊下で展示されておりました。
  「せんそうをすると人がころされたり、ころしたりして、こわいです。がっこうにも行けません。ともだちともあそべません。学しゅうもできません。かぞくとはなれるかもしれません。いやなことばかりです。・・・・・・わたしのくらすの目ひょうをきめるとき、せんせいが、『あいがいっぱいのくらすにしようね』といっていました。
  けんかになったらはなしあい、ゆるしあいます。そしてたすけあいをすればへいわになるとおもいます。あいのたくさんのクラスにして、がっこうにして、おきなわけんにして、日本にして、せかいにしたいです。」
  「平和活動において最も大切なことは、深い確実な愛の体験からそれが溢れでるものでなければなりません。自分が愛され、その愛を喜びとする人だけが真の平和をつくりだせるのです。」(ナウエン)

出会い

 21日の日曜日には、小禄聖マタイ教会に出席することにしました。5年前、沖縄教区の黙想会指導者として招待されたとき、この教会の牧師髙良司祭は、車で私たち夫婦を北から南まで案内してくださり、日曜日には、この教会にお邪魔したからです。開会レセプションの時、髙良司祭に出席を告げますと、誰かが側でこれを聞いていたようです。「主教たる者、日曜日に説教しないのはおかしい。」ということで、説教者に私の名前が黒板にしっかりと書かれていました。
  入堂し、チャンセルから会衆席を見ますと、主教2名、司祭5名、信徒2名、計9名に加え、目の前には、鬼本司祭ご夫妻が聖歌を歌っているではありませんか。
  礼拝後、1品持ち寄りによる歓迎昼食会が催されましたが、どの料理も沖縄独特のもので、会議参加者はおお喜びで、ご馳走を頬張りました。私は鬼本司祭ご夫妻の隣りに座り、「私が来ることを予め知っていたのですか」とお聞きしますと、「私も目の前に中村主教がいてびっくりしました。体調不良のため、3年前に愛楽園祈りの家教会嘱託牧師を辞して、この教会近くに居を構えたのです。」 5年前、髙良司祭の案内で、牧師館に突然伺いましたが、本当に疲れた様子でしたので、数分でおじゃましましたが、この時のことは覚えておられませんでした。
  85才になられた鬼本司祭は下関出身で、私が下関の教会で生まれた時、すでに教会に出入りしておりました。末永司祭と同じく、聖職志願して大学卒業後、神戸教区から愛楽園に居住する、ハンセン病の人たちのために、祈りの家教会に派遣されました。
  開会レセプションのとき、現在、ソウルの大学院で勉強中の松山健介君から、大韓聖公会からこられた、クィク・ドンインさんとその娘さん、チュ・ソウンさんを紹介されました。クィク・ドンインさんは、ノア趙光元神父のお孫さんであり、チュ・ソウンさんは私の娘、香の友人だったのです。
  趙神父は、アメリカ聖公会のハイチャーチの流れをくむ、ナショタ・ハウス神学校を卒業した後ハワイ教区に属して、1923年から45年までハワイの韓国人会衆の教会牧師となり、1945年から48年までは、中国大連の教会へ赴任。朝鮮戦争勃発後の1952年から2年間、米子基督教会(現聖ニコラス教会)で司牧され、その後ソウルに帰り、韓国ではエキュメニカル運動に貢献された方なのです。

地震に遭遇

 4月13日(土)5時33分頃、日本の兵庫県淡路島付近を震源として発生したマグニチュード6.3の地震が発生しました。西日本で発生した震度6以上の大地震は6400人超の犠牲者を出した1995年の阪神大震災以来でした。
  5時32分、玄関を出て見上げますと、青い空が一面に拡がっております。この日10時より聖ミカエル大聖堂で、松蔭中学の入学感謝礼拝が行われる予定です。「いい天気で、新入生は幸運だな」と思いながら7階から、いつものように、エレベーターに乗りました。その途端、ガタガタとエレベーターが揺れだしました。ワイヤーが故障したのかな、と思いましたが、揺れは止まらないのです。これは地震なのです。
  エレベーターのなかにとじ込まれるのではないかとの思いが一瞬、脳裏をよぎりました。そうなると、いつここから脱出できるかわかりませんから、入学感謝礼拝の説教はこれで無理なのでしょうか? ところが幸運にも、エレベーターは4階で止まり、優しそうな女性が聞こえてきました。「地震です。地震です。この階で降りて下さい。」と言うなり、4階の扉が自動的に開きました。無事脱出です。
  私が住むマンションは新しく、エレベーターの、地震に対応するテクノロジーはすごいものがあり、礼拝説教を無事済ますことができました。