アンデレ便り3月号:ムラ体質に鞭
昨年末、WOWOWで黒沢明監督特集をしており、「夢」はまだ見ておりませんでしたので、録画しておきました。
正月、寝転びながら、興味津々の面持ちでこの映画を鑑賞しました。まず最初に狐の嫁入りの場面だったのですが、狐たちは隊列を組んで、一歩前進するごとに、左右を見渡すという、誠に奇妙な行進風景に、何だこれは、と思いつつ、結局、最後まで見続けましたが、見終わった後、特に「トンネル」と「赤富士」には、ある種の衝撃を受けました。
戦争の過去は清算されていない
中隊長が、トンネルを抜けてきました。その背後から野口一等兵がやってきて、「自分は本当に戦死したのでありましょうか。自分は戦死したとは思われません。除隊になって家に帰り、お袋にぼた餅をつくってもらいました。それを自分ははっきりと覚えております。」と中隊長に迫ります。「それはおまえが弾に当たって気絶し、介護している時に聞いた話だ。それは夢だ。しかし、それから5分後におまえは死んだのだ。」「わかりました。しかし、親父やお袋は自分が死んだとは思っておりません。」と向こうの方を指さし、「あれは自分の家です。両親は自分の帰りを待っております。」と言うのです。「おまえは私の腕のなかでおまえは死んだ。」。野口一等兵はしぶしぶトンネルを引き返します。ところが今度は、第三小隊全員が中隊長のところにやってきて、「ただいま帰りました。全員異常なし。」と報告します。
「聞いてくれ。おまえたちの気持ちはよおくわかる。しかし、第三小隊は全滅した。おまえたちは全員戦死したのだ。すまん。生き残ったわしはおまえたちにあわす顔はない。そのようにしたのは自分の責任だ。しかし、生きながらえた私は抑留生活で、死の苦しみを味わった。そして今、またおまえたちを見て同じ苦しみをなめている。おまえたちは、そんな苦しみはなんだというだろう。しかし、正直に言う。わしはおまえたちと一緒に死にたかった。このわしの気持ちを信じてくれ。おまえたちの無念な気持ちはよおく分かる。これは、犬死にだ。しかし、この世をさまよって何になる。頼む、帰れ。帰って静かに眠ってくれ。」 中隊長は、「第三小隊回れ右。前え進め。」と命令しますと、兵隊たちはもと来た道を引き返しました。
その時、夢の最初、トンネルに入ったとき吠えてきた、背中にダイナマイトをくくりつけたどう猛な犬が、再度、中隊長を威嚇し、夢が終わります。
原子力発電所は危ない
大勢の人々が逃げ惑っています。6つある原子力発電所全てが爆発し、赤く染まった富士山が大噴火を起こします。パニックになった群衆は、雪崩を打って海に飛び込んでいき ます。赤ん坊を背負い、一人の子どもの手を引いて逃げようとしている女性は、「原発は、 安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない。絶対にミスを犯さないから問題はない、とぬかしたやつらは、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」と叫びます。側にいた背広の男性が、「大丈夫!それは、放射能がちゃんとやってくれますよ。すみません。僕もその縛り首の仲間の一人でした」と、自分が原子力発電所の関係者であることを告白します。
「夢」は1990年に製作されたものです。まるで、黒沢監督はそれから21年後に発生した、福島第一発電所のメルトダウンを予言しているようです。太平洋戦争では、多くの犠牲者を出しましたが、戦争を指導した人たちの責任を曖昧にすることは許されない、というメッセージを「トンネル」を通して私たちに送っています。
強盗の巣と化した神殿とイエスの怒り
地震大国日本で起こった福島原発メルトダウンから、原子力による発電は危険きわまりないという教訓を私たちが得ているにもかかわらず、月日の経過と共に、大震災の生々しい記憶が薄れていくに従って、原子力村の住民が、あらゆる手を使って原子力発電の正当性を主張し始めています。太平洋戦争で悲惨な体験をした人たちが高齢化するのと軌を一にして、戦争責任を曖昧にしたり、反対に戦争を美化する人たちが台頭しています。最近では、教育委員会村、柔道村などの存在が明らかになりました。村人たちはおしなべて、村の必要性を主張し、その存続を望みます。なぜなら、村には、自分たちにとって「うまみ」があり、その甘受が生活の基盤となっているからです。
十字架にかけられる6日前(復活前主日)、エルサレム入場を果たしたイエスは、エルサレム神殿に赴き、門前市を見て、縄で鞭をつくって羊や牛を境内から追い出し、屋台をひっくり返しました。神殿で商売する人たちや、彼らからリベートを受け取り、私腹を肥やしていた神殿関係者の姿勢を、イエスは見過ごすことができなかったのです。しかし、この出来事を聞いた祭司長たちや律法学者たちは、イエスをどのようにして殺そうかと謀りました。
ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊先生が、ダライ・ラマ法王との対談で、「仏陀が慈悲を2500年前に説き、キリストが2000年前に愛を説きながら、なぜ戦争が収まらないのか。宗教に問題はありませんか。一神教の信者は、自分は正しくて、向こうは正しくない。と言います。イエスかノーか、その中間はありません。そうした宗教観の相違が、戦争の主たる原因ではないでしょうか。仏教はそれらと少し違うように思います。仏陀のために大戦争というのは聞いたことがない。21世紀は仏教のような、心の広い宗教の出番ではないでしょうか」と問いかけますと、「いや、私はそうは思いません。キリストも立派だし、ムハンマドも立派です。しかし、それを信じている人が教理を自分の集団の都合のいいように解釈しているところに、本当の問題があるのです。」と、ダライ・ラマ法王は返答しました。(「神と見えない世界」より)
他者や社会を顧みようとぜず、村人の自己目的実現の道具としてだけに存在する組織は、必ず制度疲労によって崩壊します。事実、エルサレム神殿は紀元70年に崩壊しました。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした(ルカ19:45)。」というイエスの警告の言葉は、教会と、それを構成するキリスト者の本来あるべき姿を私たちに示しているのです。