アンデレ便り1月号:「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」

教区の皆様、明けましておめでとうございます。昨年末には総選挙が実施させれて政権政党が交代しましたが、特に、日本を取り巻く島々に端を発した領土問題は政治問題化し、それが未だに尾を引いており、国内においても、経済的に非常に厳しい状況のなかで私たちは新しい年を迎えました。

熱意と勇気を

  ここ数年、教区や教会で進められております宣教協議会で私たちが議論したのは、教会は何のために存在しているのか、という、根源的な問題です。戦争によって大打撃を受けた聖公会の各教会は、1970年前半までに一応復興し、教会の自給が確立しました。その後、経済成長を経験したところで少子高齢化時代を迎え、ここ10年来、堅信受領者数よりも逝去者数が上回り、教会を経済的に支えて下さっていた信徒が次第に天に召され、会計さんは青色吐息です。その一方、若い人たちがなかなか教会に足を踏み入れない状態が続いております。
  このような状況下で、どのようなかたちで宣教体制を再構築するか、ということになるのですが、信徒減少の原因究明をなおざりにしたり、地域社会に対する働きかけの欠如に鈍感であったことなど、真摯な反省が求められます。これらを踏まえて、教会は前進しなければなりませんが、このようなときにこそ、私たちは持てる力を結集して、困難に向かって進んでいく熱意と勇気が求められております。

上杉鷹山に学ぶ

 「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」の名言で有名な、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山は、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られております。
  「農民への度重なる重税が続き領民は疲弊し、江戸・大坂の商人からの借金は膨大となり上杉家は破たん寸前。そのような危急存亡のとき9代目となるべく九州日向高鍋藩3万石から養子に入ったのが当時10歳の上杉治憲で、17で藩主となった。・・・・・・そこで最初に藩内のはみだしものたち、社会悪に怒りを持っていたり相手かまわず直言する人間など骨のある数人を集めその意見を聞きながら改革に着手した。鷹山が実施したことは、①藩政逼迫の実態を正しく摑むこと、②その実態を全藩士に伝えること、そして、③目標を設定することだった。」(佐々木常夫)
  鷹山は生活費を節約し、祝い行事の延期や贈答の禁止など、藩の支出を徹底的に切り詰め、制度の壁、物理的壁、そして意識(心)の壁という、藩の変革を阻害する障壁を次々取り除けました。
  かつて米沢藩がかかえていた問題全てが、神戸教区に当てはまるとは思いません。学ばなければならないことは、現状打破は困難であるという教役者や信徒の意識の壁をまず取り除く必要があります。そして、教会にかかわるより多くの人たちに教会の現状を理解していただき、そのうえで、宣教のビジョンと、より具体的な行動計画策定が今年初めの受聖餐者総会の主題となることを期待します。
  受聖餐者総会決議によって実施される宣教計画に多くの人たちが参画し、活き活きとした教会に変貌する2013年でありますよう、お祈りしております。

ビッグなプレゼント

 先日、東京から帰りの新幹線で新潮45ー1月号をぱらぱらめくっておりますと、かつてTBSのアナウンサーをしていた小島慶子さんの「女が女に出会うときーサンタクロースの人生」という文章が目にとまりました。
  慶子さんが幼稚園児の頃のある冬の日に「サンタさんくるかなあと言いますと、母は「今年のプレゼントは何がいいの? 買っておくから」と答えました。小島さんは、薄々、サンタクロースは作り話ではないかと思っていたのですが、さすがに衝撃を受けたそうです。サンタがいないということよりも、自分の母親はよそのうちと違って、サンタがいるって言ってくれるママじゃないということに失望したのでした。そうはいいましても、プレゼントは欲しいものです。ですから、オルゴールが欲しい、と母親にいったのです。25日の朝、包み紙を開けますと、水森亜土のイラストのついたピンクのオルゴールがでてきました。何も知らずに開けたかった、と無念に思いながら、それでもそのオルゴールが嬉しかった。母も嬉しそうでした。しかし、何かが足りない、サンタが嘘か本当かじゃなく、家族に対して、共感してほしいという思いが強かったのです。私が愛されたいように、私を愛して欲しい。そういう強欲さを慰めて欲しい、と思ったのです。結婚した慶子さんには、2人の男の子が生まれましたが、サンタの存在を小学校4年になっても信じているのです。
  サンタクロースは、子どもの御用聞きではないということです。子どもの要求に屈するようなサンタであれば、自分の願望をかなえてくれる存在でしかないのです。サンタが子どもたちにあげたいものをもってくるのだから、文句も注文もつけるものではありません。そもそも、人が何も言わない、要求しないのに、ものをくれることなんて滅多にないのです。その機会がクリスマスということになるのです。
  2000年前、ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶に、「言が肉となって・・・・・・宿られ(ヨハネ1:14)」ました。窮地にある多くの人たちの切なる願いに応えるため、神さまは最上のプレゼントを人間世界にくださったのです。しかし、自分を小さな王と密かに自認する人たちは、その誕生をにがにがしく思い、反発します。救い主誕生によって、様々な困難のなかでも、私たちは神と共に在ることによって希望が与えられるのです。「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです(1テモテ4:10)。」とパウロが言う通りです。そして、希望を抱く心は、天上での喜びで満ちあふれ、救い主誕生を賛美するのです。
  (2012年クリスマスイブ説教抜粋)