アンデレ便り11月号:私たちも、その道を歩みましょう -諸聖徒日・諸魂日を迎えて
諸聖徒日(11月1日)、諸魂日(同2日)は、日本の慣習でいえば、お盆といえます。諸聖徒を初め、信仰の先輩たちを想い、その足跡を辿ることが求められます。
ヨハネ福音書14章では、イエスは、ご自身の死期が迫っていることを悟り、自分を信頼し従ってきた弟子たちから去ってしまうことを告げました。トマスの「(あなたが)どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるのですか」という質問に、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました。道の向こうに住む場所があり、場所を用意するためにわたしは行き、戻ってくる、というのです。人間は生きている間は、死後の場所を用意しには行けません。ですから、イエスが私たちの代わりになってその場所を整えてくださるのだ、と理解してしまいます。
「父の家には住むところがたくさんある。だから用意しにいく。」ということは、私たちのための住まいはすでにそこに在ることを意味します。その住まいにイエスが行かなければ、私たちも本当に住むことができない、だから行くといったのです。
13章36節で、「主よ、どこへ行かれるのですか」と言うシモン・ペテロの質問に、イエスは「わたしの行くところに、あなたは今ついてくることが出来ないが、後でついてくることになる」と答えます。しかし、ペテロは、「主よ、何故、今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と自分の決意を表明します。ところがイエスは、「あなたは鶏が鳴くまでに三度私を知らないというだろう」と予告します。その通り、イエスが逮捕されるやいなや、イエスの生き方が全く理解できず、我が身保全のため、イエスという人は知りもしないと、自分がイエスの弟子であったことを否定しました。
その挫折から立ち直ったペテロは、復活のキリストから、「私の羊を飼いなさい(ヨハネ21章17節)」との命令を受けます。しかし、羊を飼うことは、ペテロにとって、自分が行きたくないところへ、他人に帯を締められて、引っ張られて行くようなものであったのです。
人生は旅路です。その道すがら、神さまとはいかなるお方なのだろうか、神さまなんかいないのではないか、などの疑問を自問自答したりして、道を逸れてしまうときもあるでしょう。苦難に遭遇し、歩みがのろくなるときもあります。しかし、どのような困難が道の前方に横たわっていても、神の国に必ず至ると言われるイエスの約束を信じて、前進するしかありません。私たちは、神を知り、神を愛し、人びとに仕える道を歩むのです。
ごちゃ混ぜ教会(Messy Church)
今年5月、神戸バイブル・ハウス主催の英国聖公会巡礼の旅に参加し、ロンドンでの自由時間に、ウエストミンスター・アベイの隣りにある、英国聖公会本部1階のキリスト教書店を訪れました。アルファー・コースのDVDを手に入れるためです。ところが、書棚のどこを探してもそれが見あたりません。店員に聞きますと、「ここには置いていませんが、アルファ・コースと同じ種類のDVDがあります」といいながら、「メッシー・チャーチ Messy Church」のDVDを私に差し出しました。店員がそういうのなら、間違いはないと思い、これを買うことにしました。しかし、「メッシー・チャーチ」とはいかにも、うさんくさく感じられる教会名です。メッシーは、「汚い、散らかし放題の、ごちゃ混ぜの」などの意味があり、一体どのような教会を指しているのか、見当がつきません。
帰国後、そのDVDは、小物が散乱している引き出しの中に放置されたままとなりました。3か月半が経ったある日、聖職シャツを英国に注文するため、首のサイズを測ろうと、引き出しを開け、メジャーを探しているうちに、DVDが目にとまり、見てみようかなという気持ちが起こりました。
メッシー・チャーチというのは、教会の名前ではなく、日曜学校や、青年会、婦人会と同じような教会活動の一つであったのです。従来の教会団体との違いは、老若男女、人種を問わず、あらゆる階層の人たちが加わって行う種類のもので、約1か月に1回の割合で、週日の午後か夕方に集会を行っており、現在、英国や海外を含め、約2万人が参加しているそうです。
DVDは、ある日のメッシー・チャーチを紹介します。母親やその子どもたち、若者や高齢者が教会に足を運び、入り口で自分の名前を胸につけます。この日のテーマは、「湖の上を歩くイエス」です。参加者全員、すでに聖書を読んできているのでしょうか、この出来事をイメージしながら、用意された材料を用いて、舟や帆を造ったり、幼児は、足に絵の具を塗りたくり、床に敷かれた紙の上を歩き、湖を歩いたイエスをイメージ化しております。
作業が一段落したところで、全員礼拝堂に入り、牧師から、この物語を聞き、歌や動作で、この物語を表現します。最後は、教会ホールで食事会です。年輪を重ねた婦人が若い人たちに料理を指導したり、子どもたちはお母さんと共同して、クッキーをつくります。約2時間で会はお開きとなりました。
メッシー・チャーチの目的は、イエスに人びとを紹介し、イエスと共に信仰が成長することです。しかし、キリスト教信仰と一口にいっても、子どもから高齢者まで、その理解は多種多様です。子どもたちや若者は、「神は誰ですか。イエスはなぜ死んだのですか」などという初歩的な疑問を抱いており、それを大人に投げかけてきます。様々な世代の人たちが、一所に集い、他者から多くの事柄を学ぶ機会をこの教会は提供しているのです。ややもすれば硬直化し、限定化されてしまう教会の交わりに、風穴を開け、本来の教会の在り方を実現しようとする試みが、メッシー・チャーチなのです。
毎主日の礼拝後のお茶の時間やうどんのとき、先週とは違った人たちの席に座り、会話しながら食事を共にすることから、新しくて新鮮な出会いが創り出されるのではないでしょうか。