アンデレ便り9月号:行進をするということ (平和行進メッセージ・8月5日平和公園にて)
写真のついたアンデレ便りは、こちらです。
私たちは、これからカトリック広島平和記念聖堂まで歩きますが、どのような姿勢で行進するのでしょうか。
2つの行進
16年前の1月17日、神戸市須磨の教会の牧師をしていたとき、大震災を経験しました。大震災当日、大渋滞が発生しましたが、身動きできなかった人たちは、車を道路脇に放置し、徒歩で目的地に向かい、渋滞が益々酷くなりました。私は教会に避難して来た人のバイクを借りて、信徒の安否確認のために、次の日から神戸、芦屋、西宮方面まで足を伸ばしました。国道2号線や山手幹線では、緊急車両以外の車の乗り入れを禁止しましたが、車道と歩道が逆転し、警官は、バイクを運転している私に、歩道を走るように指示します。片方の車道は、被災地から逃げ出して大阪方面に行く人たちが行進し、反対車線では、大阪方面から、家族、友人、知人の安否を確認するために神戸市内へ向って、多くの人たちが行進していました。
66年前の8月6日、被爆し、家を失った人たちの行進が、自然発生的に起こりました。一瞬にして家を失った被爆者は郊外向けて行進を開始しましたが、その姿は、阪神大震災のときとは、比べようもないほど悲惨で、被爆者の多くは道の途中で歩けなくなり、息絶えてしまいました。日が暮れても、とぼとぼと道を歩く人たちは、行き倒れてしまった遺体を、それとは知らずに、踏み越えて、親戚や友人を頼りに、目的地目指して歩き続けました。広島以外に住んでいた人たちは、家族、親戚、友人の安否を確認するために、被爆地に入りました。
人災による人間破壊
広島市内に入った人たちは、阪神大震災の人たちと同じく、自分の愛する者が命を失ってしまったのではないだろうかという、最悪の状態を想定し、悲しさ、寂しさ、無念さや不安で心が張り裂けるような思いを抱いておりましたが、それによって、二次被爆という悲惨な状態に置かれました。被爆者は、体が最悪の状態となっても、何とか生き延びることができるのでは、という一縷の望みを抱きつつ、郊外に向けて歩いていたのです。
阪神・淡路大震災や、広島原爆の時に自然発生的に起きた人の流れ・行進は、自分や他人の生死に関わる、必死のものであったということに間違いはありません。
しかし、阪神・淡路大震災と広島原爆は全く異なった大災害であることに注目する必要があります。阪神・淡路大震災は自然災害であり、従って、これを人間の手でとめることは不可能です。一方、広島・長崎の原爆は人災であり、投下に関わった人たちや国民の利益、傲慢、偏見、差別、ねたみ、憎しみなどが、原爆投下の背景にあり、これらを取り払うことができたならば、原爆投下をとめることが可能であったかもしれないのです。
私たちは、人類の平和を心から願って、今から行進を行います。平和実現のためには、
何よりもまず、他人や国家に対する偏見や差別、憎しみ、傲慢などが、私たち一人ひとりの心深くに存在することを認めなければなりません。そして、行進するなかで、これらを一つひとつ、道ばたに投げ捨てる必要があります。同時に、人間の浅ましさ、罪深さによって苦しみを受け、十字架を背負ってゴルゴタの丘まで行進したイエスの生き様、死に様に思いを馳せることが必要なのです。
イエスは最後の晩餐のとき、「わたしは平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない」といわれ、弟子たちに、平和を作り出す器として自分を用いるように命じられました。2000年後に生きる私たちにも、同じ命令が下されていることを、行進を通して、再確認したいものです。
つながり
中高生大会は、自然に富んだ、徳島県日和佐海岸に面した場所で開催されましたが、今回は、東日本大震災の被災教区の東北から、2名の中高生と聖職候補生も参加してくださいました。今年の大会テーマは、「つながり」でしたが、他教区の中高生とも連帯していることを、東北からの人たちの参加により、具体的に現すことできたことを感謝します。
祭りと花火
神戸教区が8月15日から10日間実施する、大震災室根プロジェクトの下準備のために、私は8月13日(土)夕方、岩手県の室根聖ナタナエル教会に到着しました。同じ日、神戸教区神学生2名は、小名浜聖テモテ幼稚園のワゴン車を運転し、すんなりと室根入りする予定でしたが、お盆の大渋滞に巻き込まれ、午後10時まえに到着しました。この夜は、日本聖公会青年委員会のメンバーと青年有志7名も室根に泊まりましたが、この7名は、14日日曜日の午後から行われる、気仙沼南にある漁村の祭りのお手伝いをするために室根に来ました。この村の近くには、震災被災者の仮設住宅があり、その人たちの慰安のためにも、祭りが開催されるということです。神戸教区神学生2人もこの奉仕に加わることになり、私はこの日の夕方、祭りの場所である日門港を訪れました。
砂浜に4、5張建てられたマーキーテントの下で、焼きそばやたこ焼き、焼き鳥などが売られており、子どもたちは大喜びです。津波に流され、自分たちの力では、調達不可能であった太鼓や衣装が全国各地から寄せられ、特設舞台の前では、それを着た小中高生約20名が太鼓を叩きます。獅子舞が登場して祭りを盛り上げ、最後は花火で祭りを締めくくりました。
7時半より30分間、満月の海に打ち上げられた花火を、親、兄弟、親戚を津波にさらわれた人たちは、どのような思いで、見つめていたのでしょうか。5か月前までは、毎朝、一緒に食事をして学校や会社にでかけていった情景とか、正月やお盆に、家族・親せきが一堂に会し、酒宴を催した光景を思い出したのではないでしょうか。花火が一瞬のうちに空中に消えてしまうように、5か月前のことをいくら懐かしんでも、もう同じ状態には戻りようはないのです。
津波によって親をうしなった子どもたちは、誰の保護を受けながら成人していくのでしょうか。誰かが親代わりとなる必要があります。イエスの父ヨセフは、イエスとの血のつながりはありませんでしたが、イエスの保護者となったように、血のつながりを一歩乗り越えたところの相手と、生活を共にしていくという責任感と信頼感に基づいたかかわりが、多くの場所で求められているのです。