アンデレ便り10月号:大聖堂改修工事完了

 6月半ばから実施されていた工事は、8月末を持って完了し、教区の皆さまには、10月11日(月・体育の日)にお披露目をすることになります。

残響は2秒

 耐震工事に付随して実施された大聖堂内部改修工事によって、木製の窓が既存の窓の内側に取り付けられ、外部からの騒音を殆ど遮断することができました。音響に関しては、竹中工務店大阪本店の音響デザイン部門に赴き、大聖堂内部のデータに基づいた音響を聴きました。聖堂の容積、形状を勘案しますと、残響を1秒から1.7秒に向上させるのが限度である、との結論でしたが、残響を2秒にまで向上させるように要請、設計者は、聖堂内の天井板仕様や、天井高の調整を行い、図面が作成されました。結果はどうなったのでしょうか。
  先日、音響デザイン部門スタッフが大聖堂で測定した結果、音響は、空席時で2.3秒、満席で2秒でした。しかし、人の声はマイクでカバーしなければなりません。10センチ以内に口をマイクに近づけて発声すれば、問題はないということでした。
  10月11日の礼拝に参加される皆さまには、このことを実感できると思います。礼拝後のミニ・コンサートでどのような音が大聖堂内に響き渡るか、今から楽しみにしております。

からだの健康診断 そのⅡ

 7月7日の健康診断によって、高血圧と判定されましたことは、8月号でご報告しましたが、血糖値に関しては内密にしておりました。実は、134と判定され、糖尿病の疑いがあるとのことです。「原因は昼食とビールに有り」との家人の厳しいお咎めにより、昼食を極力、弁当にすることにし、糖質の少ないビールを家では飲むことが強制されました。9月13日(月)再度、血液検査をおこなった結果、2ヶ月の精進によって血糖値が35下がり、99の平常値となりました。教区会における、厚生部長の暖かい教育的指導を感謝する次第です。
ところで、キリストのからだである、教会の健康診断は必要なのでしょうか。

教会活動の現状

 現在、神戸教区各教会では、主日礼拝が司祭・信徒によって守られております。毎月1回の頻度で婦人会や日曜学校教師会がもたれます。牧師・管理牧師は、定期的に聖書研究会を、不定期的には、洗礼・堅信準備会を開き、教会の門を叩く人たちを教化し、洗礼を施す準備とします。また、「魂の癒し」のために、信徒を定期的に訪問し、安否の確認や信仰的な励ましを与えることに専念しております。

 一方、熱心な教会員は、教会の維持、発展のために様々な奉仕活動に関わり、老朽化した建物の改修や新築に迫られたとき、自己資金でまかなう努力を怠りません。これが不可能な場合、収穫感謝献金や管区融資金に頼ります。
  これらは、信徒相互の絆や、教会に対する愛着や同一化を限りなく強化することになり、戦後から今日まで、教会を維持し、存続させてきた、最も大切かつ基本的な活動であったと評価できます。しかし近年、少子高齢化の波が次第に教会に押し寄せ、信徒の高齢化が急激に進み、これに比例するかのように、若者の姿を教会で見ることがまれになりました。地方教会では、高校卒業と同時に、都会の大学に入学する確率は大であり、しかも、卒業後の就職先を故郷に求めることは極めて困難な状況です。
  信徒数減少に伴い、教会活動自体が次第に内向きになり、献金額も減少し、教会自給が脅かされる教会が増加傾向にあります。同時に、信徒同士の関係が、親密になりすぎたとの錯覚により生じる予断が災いして、信徒同士の賜物を引き出し、教会活動に役立てることが難しくなっているのではないでしょうか。加えて、牧師や信徒間の意思疎通がうまくゆかず、教会を去る人も出てきております。

キリスト者の苦悩

 今は閉鎖されているようですが、須磨めぐみ教会の「怒りのマイク」というホームページがあり、多くの人がこれに投稿しております。
まりあ Aさん。あなたのせいで、教会にいけなくなった。教会で、無視したり、非難したり、私があなたに何をしたの。あなたの気分で、態度がころころ変わる。
 何ケ月もシカトされた。……人と会うのさえ怖くなって、泣いている。……
 もう2年も礼拝にいけない。牧師も何も言ってこない。「元気になったら、戻っておいで……」元気にならなきや戻れないのですか? 彼女を許さない私は、戻ってはいけないのですか。

 毎週、日曜日になると、苦しくて仕方がない。私の信仰って、なんだったのだろう。
 教会に長くいると、多くの人間関係の煩いが渦巻いているのに気づかされます。私も時に、教会の人間関係の渦巻きを見ているだけで目が回り、その渦中に突き落とされては、自分自身が底まで沈み込んでいくような気がします。いえ、それだけではありません。自分自身がその渦をいつの間にか、せっせと作り上げているのに気づくのです。夜眠れなくなるのは、そんな時です。ばらばらの人たちが眠れないで朝を迎えた日曜日、それでも私は教会に行きます。強いられて重い足を引きずって礼拝堂に行きます。そして礼拝が始まる。私の夜の苦しみを少しも知らない人たちと共に礼拝をします。私もそこに座る兄弟姉妹の苦しみを全部は知りません。どうしても他人の心の深みに踏み込むことができない、分かり合うことができない私たちです。
  一方、聖職者のふるまいについて、カトリック教会の例を紹介します。
  「特別な用事があると思えないのに、ミサに遅れる。信徒たちは理由もわからず、聖堂に待たされたままである。気にくわないことがあると、ミサ中でも、祭壇上からどなって、信徒に注意する。自分のやり方に反対する者や気にくわない者には、顔を背ける、言葉をかけない。教会の窓の開け閉めから冷暖房の使用まで、信徒がいちいち司祭に伺いをたてておかないと、つむじを曲げる。前任司祭が時間をかけ、信徒たちと話し合って築き上げてきた教会の雰囲気を、着任して1年とたたないうちに変えてしまう。」

                                                                                                                     「しんげん(森一広著)」より