オーガスチンのまなざし 神のおとずれ2022年3月号より

『神の子の特権』

ある教会で、洗礼を受け神の子にしていただいた喜びを説教しました。礼拝が終わって、一人のご婦人が私のところに来られて、「洗礼を受けて、神の子にしてただいているのですが、迷ってばかりです。神様のところに帰ったり、また迷い出たりで、こんなふらふらした信仰じゃダメですよね」と情けなさそうに話されました。洗礼を受けて、神の子にしていただいた特権を喜んでいる、というよりも、立派なクリスチャンとしての理想像を押し付けられて、息苦しくなっている、という状況だろうと思いました。

そこで最近、考えている神の子の特権について、こんな説明をしました。「洗礼を受けて、神様の子どもになるということは、放蕩息子の身分が与えられたと考えられないでしょうか。いくら迷い出ても帰るところがある。帰れば神様が温かく迎えて下さる放蕩息子の身分が与えられた、と考えればどうでしょうか」と。するとその方は、パッと顔に光がさしてきて、嬉しそうに「主教様、ありがとうございました!」と笑顔で去って行かれました。

放蕩息子のたとえ話は、ルカによる福音書十五章にあります。「ある人に息子が二人いた」という言葉で始まります。ある人が神様を表しています。放蕩に身を持ち崩す弟は、父親の死後もらう遺産を生前にもらい、お金に換えて遠い国に行き、そこで放蕩の限りを尽くして財産をなくしてしまいます。食べる物にも困り、反省して、父親の家に帰って行きますと、まだ遠く離れていたのに父親は彼を見つけ、走り寄って、彼の帰宅を大いに喜びます。そして指輪をはめてやり、息子としての身分を回復して、祝宴を始めます。これが放蕩息子のお話です。

私も自分の人生を振り返ってみて、そんなに立派な生き方をしてきたわけではありません。何度も迷い出て、傷つき、疲れ、絶望の中に帰って来たこともあります。それでも神様はいつも私たちを神の子として受け入れ、慰め、癒して下さるのです。これこそ神の子の身分であり、特権ではありませんか。

(神戸教区主教)