アンデレ便り2月号:洗礼を受けた私たち
1月10日の日曜日、主イエスの洗礼を記念する主日をお祝いしましたが、イエス洗礼の記事を読んで疑問に思うことは、全知全能の神の子と呼ばれている方が、どうしてヨハネから洗礼を受けなければならなかったか、です。
洗礼に必要なのは悔い改めか
成人した人たちが洗礼を躊躇する最大の理由は、過去に起こした様々な罪を懺悔し、2度と同じ事を繰り返してはならないということを誓うのが洗礼だと思うからです。つまり、道徳的な観点から、新たな出発が求められるというものです。この見方からすれば、やましいことが見つからず、道徳倫理に忠実で、経済的にも社会的にも恵まれている人が洗礼を受ける必要はないということになります。
確かに、道徳的に問題を抱えている人たちが大挙して、洗礼者ヨハネのもとに押し寄せてきました。ですから、だいそれた罪を犯していない人、自分の言動によって人がどれだけ傷ついているかについて全く鈍感な人、つまり、悔い改めるべきものは何もないと思っている人たちは、洗礼を受ける必要はないということです。自分を正しい人間と自認するパリサイ派の人たちや律法の専門家は、ヨハネから洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだとルカ福音書7章で述べている通りなのです。
イエスが登場する前、洗礼者ヨハネが「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れたかたが来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる(ルカ3:16以下)。」と民衆に語っておりますが、そのイエスが民衆と共に列に並び、洗礼を受けたあと祈っておられると、聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきました。このギリシア語を直訳しますと、「あなたはわたしの子、愛してやまない子。わたしはあなたを本当に喜んだ」となります。
二つの声
わたしの愛する子という表現は、独り子と同じ意味があります。創世記22章2節で神さまがアブラハムを試みて、あなたの愛するたった独りの子であるイサクを献げよ、と言われた時の、「あなたの愛する独り子」なのです。この表現を聞いたり読んだりするとき、多くの人たちは、イサクのことを思い浮かべたことでしょう。次に、「わたしはあなたを本当に喜んだ」という表現は、本日の旧約聖書日課・イザヤ書42章1節のギリシア語訳「見よ、わたしの僕、わたしを支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」からの引用で、イザヤ書のこの箇所は、苦難の僕の召命です。
このように、ルカが記した神の声は、イエスについて二つのことを言いたい訳です。第一は、 イエスというお方は神の子、神の愛する子、独り子であるということで、私たちの洗礼も、神の祝福により義とされた私たちが、神さまに愛される子であることを確認することなのです。
アブラハムの苦悩
第二は、受洗者は聖霊の働きにより、神の僕として、イエスの人生を模範として生きることを約束します。
その昔、アブラハムに神は、あなたの子孫を大いなる国民とすると約束されました(創世記12:2)。しかし、ようやく生まれた独り子イサクを生け贄として献げよと命じられたアブラハムは、大いに悩み、苦しみます。結局、神の命令に従順に従うことを決意し、イサクを縛り上げて、刃物で殺そうとしました。それでどうなったのでしょうか。その後、息子イサクの消息が分からなくなり、この事件の後、妻サラは亡くなりました。それでもなお、イサクを献げることによって、アブラハムは神の約束を信じることができました。イエスの場合、神の御心を成し遂げるために苦しみを忍び、ご自身を献げたのです。私たちも、人生の歩みのなかで、神さまが実際に生きて働いておられることを色々な場面で肌で感じ、それによって新しい生き方へとつくり変えられるのです。それは知識とか倫理ではなく、現実の問題として捕らえることが必要です。
キリストを知る
デ・メロ神父が書いた小鳥の歌という本の中に「キリストを知る」という箇所があります。キリスト教に改宗した人と、信仰をもたない友人の会話です。
「キリスト者になったということですが、キリストのことについて沢山の知識があると思うのですが、キリストはどこの国に生まれたのですか。」「知りません。」 「何歳の時に死んだのですか。」「知りません。」「キリストが行った宣教はどれくらいですか。」「知りません。」「あなたはキリスト者になったけれども、キリストについてほとんど知らないということですね。」「その通りです。」 「キリストについてほとんど知らないということは恥ずかしいことです。しかし、私はこれだけは知っています。3年前、自分は酔っ払いでした。借金が沢山ありました。家族はばらばらになりました。妻と子どもは毎晩、私が家に帰ってくるのを怖がっていました。しかし、今、自分はお酒を止めました。借金も返しました。家庭に平和が戻りました。子どもたちも、自分の帰りをとても待ち望んでいます。それらはみんなキリストが自分にしてくれたことです。自分はキリストについてこのことだけは知っているのです。」
本当に知るということは、知っていることによって人間が変わることなのです。
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:27以下)【神戸聖ミカエル教会・顕現後第一主日説教抜粋】