アンデレ便り11月号: マレーシアを旅して
写真付きのアンデレ便りは、こちらからご覧ください。
様々な事情が重なり、東アジア聖公会協議会総会に主教会代表として出席することになりました。今回のテーマは、「東アジア聖公会の福音宣教」で、日本聖公会には約1時間の発表が割り当てられております。10月4日(火)朝10時、関空からコタキナバルに行き1泊、翌日クチンに到着しましたが、飛行中、発表後の想定問答作成に四苦八苦です。5日(水) 夕方、相沢管区事務所総主事、八幡渉外主事、青年代表の小川麻衣さん(九州教区久留米聖公会信徒)と合流。相沢司祭はニコニコ顔で、「主教、日曜日の説教に当たっていますよ」と言うのです。寝耳に水で、参加主教のなかで私だけが知らなかったようです。立場上、「突然言われても、私にはとても無理です。」というわけにはいかず、会議中、暇を 見つけては、説教作成です。
日本聖公会プレゼンテーション
2日目午前、日本聖公会の歴史。現状・宣教の将来的展望について発表し、東日本大震災のビデオを上映しました。
歴史のなかでは、1940年のプロテスタント合同問題に端を発した聖公会が分裂の危機に直面していたことについて述べましたが、同じ頃、東アジアでの、日本軍によるキリスト者弾圧を忘れてはなりません。1942年、日本軍はパプア・ニューギニアを占領しましたが、終戦までに、333名のキリスト者が殺されました。そのなかに、ロンドンミッションの宣教師など8名の聖職も含まれます。ニューブリテンの教会で聖餐式を司式していたバーナード・ムーア司祭は、礼拝堂に踏み込んだ日本兵に撃たれ死亡しました。ロンドンのウエストミンスター・アベイの正面外壁には、殉教を記念して像が彫り込まれております。9月2日、全聖公会では、パプア・ニューギニア殉教者のために祈りを献げます。
過去3、40年、日本のキリスト者人口が1%以下に低迷していること、日本聖公会では、堅信者と逝去者が毎年、ほぼ同数を推移し、現在受聖餐者数が次第に減少し、教会財政が次第に困難な状況下に置かれていること、宣教について真摯な見直しが、来年開催される宣教協議会で協議される予定になっていること、などを述べました。
日本では何故、キリストの福音が人びとの心のなかに浸透しないのかについて、質問が投げかけられました。いささか暴論かもしれませんが、その理由の一つとして、日本人のDNAの問題かもしれないと返答しました。徳川時代の250年、1899年、宗教教育を禁じる法令発令から終戦までの60年、計310年もの間、キリスト教に対して日本人は拒否反応を示してきたのです。従って、日本人自身の手による教会歴史は、実質的には、占領時代が終わった1952年から始まったという見方も成り立つのです。
毎日午後9時に会議が終わりますが、日本人数名は、その日の反省会と称して、ホテルのバーでギネスを飲みながら四方山話に花を咲かせました。2,3日しますと、バーのマネージャーが、「私は、嫁さんがカトリックだったので、今はそちらに行きましたが、元々聖公会でした。両親は聖公会です。」と親しみを込めて言います。女性の従業員は、わざわざ私たちのところにやって来て、「私は山岳地方の出身ですが、福音派の信者です。」と自己紹介。マレーシアのイスラムの人たちは禁酒ですから、ここで働いている人たちのほとんどはキリスト者という、日本では考えられないような珍現象が起こるのです。
クチンの聖公会
マレーシアは、イスラム教が公認宗教で、教会や信徒の言動がイスラム教徒の敵憮心をしばしば煽ります。イスラム教徒をキリスト教に回心させることは禁止されており、ミッションスクールといえども聖書を教えることはできません。授業が終わり、生徒がバスに乗り込む僅かの時間をそれに割り当てるのです。聖書も国内で印刷できません。マレーシアキリスト教協議会が外国でこれを印刷し、国内に持ち込んだところ、これに激怒したイスラムの人たちは、11の教会を焼き払いました。
10月10日日曜日、クチンから車で30分の、とある村の聖ヨハネ教会に向かいました。途中、伝道所を見学しましたが、ここに司祭は月に1回しか、来ることはできません。従って、信徒奉仕者が交代で礼拝を守っているということです。日本でもよくある話なのですが、毎主日、約100名の人たちが礼拝に出席すると聞いて驚きました。
午前8時に開始された聖餐式には、約300名の信徒が詰めかけました。しかし、オルガンはありません。説教では、東日本大震災に際し、犠牲者と被災者のために祈ってくださっていること、多額の献金を寄せてくださったことに対し、感謝の意を表しました。
礼拝後、信徒宅に昼食を招待されました。この方は1920年、日本から移民した木村さんという方のお孫さんでした。どんな日本人がきたのだろうか、と家族の人たちは興味津々という表情で私たちを迎えてくれました。広い応接間にマレーシア料理が用意され、お茶が出されました。料理を取りにいきますと、そばに、缶ビールが遠慮がちに並んでいるではありませんか。、私たちはお酒をたしなまない人たちだと思っていたようです。缶ビールを握りしめ、「これを呑んでよろしいでしようか」、満面の笑みを浮かべた木村さんが、「どうぞ、どうぞ」と言う前に、栓はすでに抜かれておりました。20名くらい集まったのでしょうか。「昼間から呑めるのは盆と正月だけ」状態になり、ビールを買い足す必要があるほど、よく呑みました。帰り際に、「聖公会信徒はイスラムの人たちに負けないように、強くて、たくましい信仰が必要なのです」と言われた木村さんの言葉が印象に残りました。日曜日の礼拝出席は当然のことと、信徒は受け止めているようです。
来年2月、東南アジア聖公会大主教に着座されるボリー、クチン教区主教は、6年前初めて会いましたが、3年前のランベス会議では毎朝、ヨハネ福音書を一緒に学んだ仲です。フィリピン首座主教着座式に出席したとき、「一度に約100名の人たちの頭に手を置き、堅信を授ける。」と言つておりました。私たちが訪れた村では、1,600名の村民全てが聖公会信徒でしたが、山岳地帯に宣教師は入り、キリスト教を布教し、かつて首狩り族であった村民がこぞって、キリスト教に回心したのです。2010年、クチン教区の堅信受領者は約5,400名で、これを52で割ると100名以上なります。この教区の受聖餐者数は約9万6千人ですから、オーストラリアを除き、東アジアでは、もっとも信徒数の多い教区なのです。