神のおとずれ 特別号 ランベス会議
ブラックバーン教区訪問
七月十三日(日)午後四時から、ブラックバーン大聖堂で「世界宣教礼拝(World Mission Service)」が行われました。ランベス会議を機会に招待した主教三名と共に、ブラックバーン教区が世界の聖公会との交わりを深め、聖公会が世界大の教会であり、共に手を携えてキリストの福音宣教の業に取り組む決意を表明するという意味合いがこの礼拝に込められておりました。
不振にあえぐ日本のキリスト教
礼拝での聖歌は、国際色豊かに韓国やフィリピンのものが歌われ、三主教及び主教夫人は所属する教区や管区を紹介しました。
私はSPGによって始められ、後にCMSも加わった神戸教区の宣教歴史と戦中の合同問題、広島の原爆及び阪神大震災について、最後に、キリスト教人口が一%弱という現実で明らかなように、日本におけるキリスト教不振の原因と思われる、特に、個人主義が育ちにくい社会風土、個々人の精神性の問題を取り上げました。
七、八年前になるでしょうか。本屋で立ち読みをしようと書棚を眺めていたとき、「イギリス人の日本人観」というタイトルの本が目にとまりました。目次の最後の方に「日本人に受け入れられないキリスト教的個人主義」と題して、サイモン・ベインズ司祭がインタビューで日本のキリスト教(聖公会)の実体について述べているのです。
編集者が「聖書のなかで私たちは『汝らはただ独り、汝の主と共にあり』と教わりました」と質問しますと、ベインズ司祭は「この個人の尊重はキリスト教教義の中の最大の魅力の一つだと思います。いかなる個人も神にとっては重要であるという。・・・・・・キリスト教と結びつけがちな個人主義が日本人に受け入れにくいかもしれません。それはつまり社会からはみ出ることを意味するわけですから」と答えています。
今から約四十年前、神戸教区の諸教会で牧師をしたときのベインズ司祭の体験に基づいた日本人評価は今でも参考になります。集団を優先し、個が集団のなかに埋没してしまいがちな日本人のメンタリティーを的確に表していると思うからです。他者に対する配慮が著しく欠如している人を、最近の流行語でKY(空気が読めない)な人と呼ぶそうですが、では、空気を読める人は一個人として自立した生き方を選択しているのでしょうか。反対に、他人が抱いている空気を読むのに汲々として自分を殺し、その人たちのペースに自分を合わせているだけの人間ではないでしょうか。
少子高齢化が進み、物質主義の蔓延や地方都市の過疎化などの影響により、少数派であるキリスト者や教会はますます社会からの孤立を深めております。この時にこそ、それぞれが置かれた場においてキリストの福音の証しが求められているのです。
ブラックバーンの主教館から約六時間のドライブで私たちはランベス会議の会場となるケント大学に到着しました。
ランベス会議始まる
ランベス会議の一日は、大学キャンパスの一角に設けられた「祈りの部屋」での「朝の礼拝」によって始まります。礼拝出席は自由ですが、私の毎日はこの礼拝から開始されました。礼拝はメラネシア修道会とフランシスコ修道会の修道士によって進められ、参加者の多くは礼拝前に来て黙想します。
黙想と祈り
「見なさい。丘と谷は約束を照らし、今日の朝はキリストの預言で光り輝いています。キリストは私たちを起きあがらせ、赦し、癒すために来られる。今から、これかもあなたの生き方をどんどん拡げていきなさい。今日これから出会う人たちに恐れをもたないで愛をもって接しなさい。」で始まり、「イエスが今日一日共に居てくださることをいつも心に留めなさい。」で礼拝を締めくくります。
「ビッグトップ」と呼ぶ全体会場で行われる七時十五分の聖餐式と夕方五時の「夕の礼拝」は、ランベス会議チャプレンチームと世界各国の主教たちが担当します。式文の構成、内容に特別な違いは見あたりませんが、随所に、地域や国の文化や伝統に裏付けされたチャントや聖歌のメロディー、所作などが色濃く反映されます。総じて南の国の礼拝は明るく、北は地味といったところでしょうか。ラテン系の主教が執り行う聖餐式では踊りまで披露されました。従って、日本の教会で歌われるような、いわゆる「懐かしのメロデー」の聖歌はほとんど登場しません。
ミャンマーの悲惨
礼拝担当の管区では、自分たちの歴史や現状を礼拝でアピールします。一番印象に残っているのはミャンマー聖公会で、サイクロン直後の映像は主教たちに衝撃を与えました。
舟から撮られたのでしょうか。木の間にひっかかり、ぶら下がった状態の遺体や、川の土手にそのまま放置されている遺体がスクリーンに映し出されます。救援のためにかけつけたトラックには、救援物資にありつこうと被災者が殺到し、去っていくトラックを多くの人たちが後ろから追っかけていきます。波にさらわれ、土台しか残していない教会跡で、司祭は数名の信徒と礼拝を献げています。
サイクロンが過ぎ去った直後、政府はこの地帯を封鎖し、政府関係者以外、被災地には誰も立ち入ることができませんでした。救援物資は約六時間かけて海岸線の封鎖地帯手前まで運ばれ、そこから舟で約三時間かけて被災者に届けるのです。あらゆる手段を用いてでも体制を維持しようとする政府の姿勢は、他国からの緊急支援を拒み、多くの人たちを死に追いやり、約百名の聖公会員がサイクロンの犠牲となりました。
イエスと同じ苦難の道を歩く主教
最初の三日間は、静想(レトリート)に割り当てられました。そのうち二日間はカンタベリー大聖堂で守られ、「神の宣教と主教の規律」をテーマにカンタベリー大主教が静想を指導しました。内容はあらまし次の通りです。
「宣教の職務を担う主教は、キリストの業を学ぶとき、自身のあり方に変革が与えられなければなりません。主教は自分が行きたくない場所、会いたくない人のところにも行かなければなりませんが、それは神がそのように命じられるのであり、神が共におられることを常に思い、困難にあるときでも感謝の気持ちを持つ必要があります。
主教は堅信志願者や聖職志願者の頭に手を置きます。手を置くとは、この人たちに、これから神が共におられる道を歩むことを促し、神の導きを祈ることなのです。従ってその人たちの将来にはイエスが経験されたように多くの苦難が当然予測されます。その道を歩むことを神が望まれているからです。このことを考えるとき、頭に手を置く主教は畏れの念を抱かずにはおられましょうか。
外国語を学ぼうとする場合、学ぶ言葉に対する先入観を捨てて、謙虚に言葉に向かう姿勢がまず求められます。「神の言」に対しても同様です。学べば学ぶほど私たちは「神の言」に謙虚な姿勢をもつのです。
沈黙についてですが、聖パウロは目が見えなくなり沈黙を余儀なくされ、その後、アラビアで十四年もの間、キリストの御言葉について思いめぐらしておりました。「主教の沈黙は神と結びついている」とアンテオケのイグナチウスは言います。主教に対する様々な問題提議や圧力を、神の御言葉が明確になり、それによって自身が変えられ行動を起こすまで、沈黙をもって耳を傾ける姿勢が求められます。
かつて聖公会では同じ祈りを献げておりました。それは「祈祷書・Book of Common Prayer」を用いることを意味します。英国から海外に派遣された初期の宣教師たちは、その地において英国国教会祈祷書を翻訳し、それを祈りの規範としました。しかし、共にある祈りというのは、全く同じ祈祷書を用いることではないことに気づきました。しかし、この祈祷書に記されている、基本的なかたち以外の祈りを献げることが可能でしょうか。共通の祈りを献げることにより、聖公会の主教が共にあることがますます強められるのです。
決断するという真の意味は、イエスが十字架への道を選んだのと同じ道を主教は選択することです。祈りを通して、神は主教をどこに連れて行こうとしているかを識別し、明確化しなければならないのです。」
礼拝と祈りを献げ、霊的に豊にされることが主教に求められます。会議は異なる状況下にある主教たちが共に集い、それを分かち合うなかで一致が芽生え、神の意志を明確にすることによって前進が可能であることを黙想から学びました。
「わたしは・・・・・・である。」
会議二日目の朝から聖書研究会が開始されました。ヨハネ福音書を通して、イエスの弟子やユダヤ教指導者、民衆に語りかけた、「わたしは・・・・・・である」について理解を深めます。メンバーは米国聖公会オリンピア教区リッケ主教、南アフリカ聖公会ヨハネスブルクガーモント主教、マレーシア、クチン教区ラポック主教、英国聖公会コベントリー教区ストロヤン補佐主教、カナダ聖公会カルガリー教区ホスキン主教、三鍋主教と私、通訳に荒木執事の、総勢八名です。
オリンピア教区は、神戸教区にとって、戦後、復興支援を受けた恩人です。同教区はまた、地理的にシアトルを含みます。神戸市がシアトルと姉妹都市を締結したのは、当時神戸市の教育委員であった八代斌助主教の尽力によるものです。神学生時代、ミカエル教会地下でオリンピア教区主教歓迎すき焼き夕食会に呼ばれたことを思い出しました。南アフリカのヨハネスブルグに関しては、二年前、ツツ大主教を招聘して平和サミットを行いましたが、ガーモント主教はツツ主教の後継者です。コベントリー教区は広島と深い関係にあり、二十年前、広島復活教会信徒と共にこの大聖堂を訪れ、当時のディーン、ペリー司祭の暖かい歓迎を受け、以来親交を深めております。マレーシア、クチン教区のラポック主教は全聖公会神学教育委員会のメンバーで、東アジア聖公会主教会で毎年顔を合わせる仲です。日本聖公会は狭いとよく言いますが、世界大で見ても同じだということがわかりました。そうはいっても、グループが属する教区が一つの管区を形成したとしても、恐らく数ヶ月で空中分解するのではと思われるほど、それぞれの教区の道徳・倫理観や奉仕職理解に関し、共通点や一致点を見いだすことが困難なのです。
聖書研究会では、イエスが言われる「わたしは・・・・・・である。」について、各主教は自身が置かれている状況や立場から解釈し、討論します。毎朝椅子に座って胸襟を開いて話し合いを続け、一週間もたたないうちに、各主教のものの見方や姿勢が理解できるようになってきました。今回の会議で、主教たちが一番リラックスして、時間を過ごすことができたのが聖書研究会ではなかったと思います。
私たちのグループでは、これからも親交を深め、祈りあい、様々な事柄を分かちあうためにメールを活用することにしました。
インダバのルール
七月二十一日より、いよいよインダバグループでの討議が開始され、四十名の主教が一つの部屋に集まりました。十五年前に聖別された主教から数ヶ月前に主教に聖別された者まで、職務に対する熱意と経験と多様性を各主教は保持しております。残念ながら、私のグループにはアフリカからの主教はおりませんがその声を代弁できる主教は存在します。
インダバでの対話、討論にはルールがあります。心を込めて相手の話に聞き入る。誠実に発言する。同意できない相手や教区・管区に対し侮辱や非難攻撃をし、姿勢を改めるように迫ることは御法度。反対の意見や立場に同意できないけれども、これを認める(agree disagree)。主語は私あるいは私たちのみ。私たちとは自分の教区、管区、自国の歴史や伝統、慣習、現状に関すること。従って「あの主教、あの教区・管区・国、誰」は主語として用いない。多く語るより沈黙のほうが価値がある。「A」か「B」、「A」も「B」ではなく、「A」と「B」と表現しなさい、などです。
様々な問題に対してどのように聖書的に理解を深めるか、人間の性の問題、植民地支配終焉後に起こっている諸問題、管区の自律(オウトノミー)、宣教への挑戦などがインダバのテーマです。ここでは特に私が印象に残っている対話討論について述べます。
主教は苦悩する
そのⅠ 食料自給問題
オーストラリアの主教は、「今聖公会が直面する様々な問題があるが、環境問題こそ最優先事項である」と強調します。オーストラリアの穀倉地帯はここ数年干ばつが続き、この主教が司牧する教区の地方教会牧師は農民の要請に応えて、真剣になって雨乞いの祈りをしなければならないほど厳しい状況下に置かれています。家畜を養うため、不足の飼料の緊急輸入に踏み切るとオーストラリア政府は発表しました。ここで私たちは食料自給率の問題を討論しました。自給率がどのような影響を他国に与えるのか明確にするためです。かつては穀物大輸出国であったオーストラリアが、国内需要さえ賄えず、輸入するとなれば、当然、世界の穀物・食料需給に与える影響は大きく、小麦価格の高騰を招きます。
最も深刻なのは、食料を充分に買うことが出来ない第三世界、第四世界で、食料危機が目の前に迫っています。世界が穀物価格を投機の対象にすることをやめ、日本の場合、四〇%にしか過ぎない食料自給率を高めることによって、世界の人たちが安心して食物を得ることが出来る状態に少しでも寄与できるのです。同時に、エネルギー消費を出来るだけ少なくし、節約した生活を守ることが環境にもよい影響が与えられることに気づかされました。
そのⅡ 地方教会の疲弊
主教の役目をテーマに、オーストラリアとカナダ、イギリスの主教と討論しました。ここでの最重要課題は、地方教会をどのように立て直すかでした。地方都市の多くでは雇用の創出は不可能に近く、信徒が僅かに十数名の教会も多くあり、高齢化し教会は衰退の一途を辿っており、街では酒と麻薬の蔓延や暴力事件が多発しているというものです。日本の多くの地方都市も、酒と麻薬は別として、同じ状況です。しかし、キリスト教国と日本では教会に対する意識には相当の隔たりがあります。何かの機会で、教会に目を向ける可能性があるキリスト教国に比して、日本はほとんど期待できません。日本聖公会の場合、教会財政の見地から見て、あるいは教役者減少により、地方教会の信徒は教会の統廃合の犠牲となる運命にあるのでしょうか。もしそうであるならば、聖公会の教会は、都会にしか存在しないということになります。
厳しい状況のなかでも、地方教会の信徒一人ひとりは福音宣教のためにその地に神から派遣されているのです。キリスト者の存在なくしては、神が望む地域社会が実現されません。それは誠に小さな声かもしれませんが、地方の特長を生かした町づくり、村づくりを訴える必要があります。
そのⅢ 人間の性の問題と主教のジレンマ
かつては同性愛者間でエイズが蔓延しましたが、現在ではそのような現象はほとんど見られません。同性愛が聖公会で問題になっていますが、異性愛の弊害はないのでしょうか。オーストラリアや日本では、多くの観光客がマニラやタイのバンコック、チェンマイを訪れ女性と関係をもちます。それによってエイズを自国に持ち帰り、日本の場合、年間約千人がエイズを発症していると言われております。
私はアメリカ聖公会の、ある主教に「あなたはどうして同性愛司祭を主教に聖別することに賛成したのですか」と質問しますと、その主教は「私は総会で発言を求め、立ち上がって『同性愛者の、主教聖別に断固反対する』と叫びました。しかし、その声はまったく聞き入れられませんでした。それでも私がまだアメリカ聖公会に留まっている理由は、アメリカ聖公会に連なる人たちは私にとって兄弟姉妹だからなのです。」と返答されました。
カナダの主教は、同性愛者を教会がどのように受け入れるかについてのジレンマを述べます。ある日カトリック教会に、結婚披露宴に教会ホールを使用させてほしいという電話があり、神父はそれを許可しました。当日になり、結婚当事者を見ますと、二人は同性愛者であったので神父は、会館使用を拒否しました。しかし、この二人は、同性愛者というだけの理由で会館使用を禁止するのは人権侵害であるとして、神父を裁判所に訴えたのです。地域社会と共に生きようとする聖公会の牧師が、州法で認められている同姓婚の祝福を自分の教会で拒否した場合、裁判となる可能性は大です。敗訴した場合、賠償金を支払わねばなりません。カトリックの場合、資産が充分にありますから徹底的に戦うそうですが、聖公会の場合どう対処するのでしょうか。
一方、同性愛者の存在を認めていない国、例えばマレーシアで同性愛が発覚し、有罪となった場合、最長で懲役二十年の刑となります。従って、この国の主教は、同性愛に賛成であってもそれを公に表明することが果たしてできるのでしょうか。
キリスト教倫理学のネルソンという人は、同性愛について、基本的には、四つの神学的な立場があることを明らかにしています。第一は、拒絶して罰を科する立場、第二は、拒絶はするが罰を科さない立場、第三は、条件つきで受け入れる立場、第四は、無条件で受け入れる立場です。同性愛者に対する道徳・倫理の基準は国や地域で全く異なっていますが、ランベス会議出席の主教も同様で、聖書的・神学的な共通理解を得ることができませんでした。
ランベス会議会場に、カンタベリー大主教から招待されなかったジーン・ロビンソン、同性愛主教が姿を現し、私的な講演会も開かれました。これを聞きにいったある主教は憤慨して、「あの主教は自分を殉教者だと勘違いしている。聖公会の多くの主教から糾弾されても自分はへこたれない。自分の立場の正当性を全聖公会に訴え、権利を主張していくと言っている。しかし、教会のなかで自分の権利を主張するという姿勢は正しいのか。新約聖書では、教会におけるキリスト者の権利主張は一言も述べられていない」。
聖公会の一致は可能か
今回の会議最大のテーマは、「聖公会カバナント」の理解と取り扱いで、主教の意見を聞くため、相当の時間が費やされました。アメリカ聖公会の多くの主教は「これはイギリス聖公会の全聖公会支配の現れである」と憤慨します。アメリカ独立戦争以前の、英国並びに国教会がアメリカ植民地をどのように扱ったかの歴史を彷彿させるような発言です。あるいは、カバナントのなかで取り上げられている、カンタベリー大主教、ランベス会議、全聖公会中央協議会、首座主教会議を、聖公会一致に必要な機関として認めるならば、綱憲の変更を迫られることになる。首座主教が何の権限も有していない管区が多くみられる。その場合、権限は教区主教が保持しており、従って首座主教会議における首座主教の意思表明は、教区主教や管区の総意とは異なる場合があり得る。四機関が相互に関連しながら、どのように機能していくか明確でない。管区は自律しているのであり、他からの干渉を受ける必要性を認めない。カバナント批准を強要すると分裂が明確になってしまう可能性があるなど、多くの問題点が主教から指摘されました。
「聖公会カバナント」は今日まで培われてきた聖公会の歴史と伝統、礼拝に基づいた教会理解を表現するものであり、これを神の恵みとして受け入れることが、全聖公会の一致を実現する「愛の絆」であると私自身は理解しております。
カバナントを「契約・コントラクト」と訳すのは適切ではないと思いますが、よい日本語が思い浮かびません。いずれにしても、「カバナント作成委員会」は主教たちの意見を充分にカバナントに反映する必要があります。そして成案は、ウインザー報告書に記されているとおり、管区もしくは教区の代表者が集い、礼拝のなかで首座主教あるいは教区主教がこれに署名するのが自然のかたちではないかと思います。
ミレニアムゴールに向けて
七月二十四日(木)ロンドン・デーには、国連が提唱する「ミレニアムゴール」を支援するため、ホワイトホールから国会議事堂を通り、ランベスパレスまで行進しました。ランベスパレスでは、ブラウン首相は行進参加者に向かって次のように演説しました。
「ロンドンでかつて見たことがないような、信仰に根ざした、すばらしい行進でした。予防可能な病気によって死ぬ運命にある1千万人の子どもたち、7千7百万人の学校に行けない子どもたち、飢餓に直面している1億人の人たちに代わり、他教派、他宗教の人たちと共に聖公会主教や同伴者は行進しました。貧困は撲滅される、撲滅せねばならない、私たちが共に行進することによって貧困は撲滅されることになるのです。」
二〇一五年までに達成すべき「ミレニアムゴール」とは、極端な貧困の下で生活している人々の割合を半分に削減すること。すべての国において初等教育を普及させること。初等・中等教育における男女格差を解消し、それによって、男女平等と女性の地位の強化に向けて大きな前進を図ること。乳児と五歳未満の幼児の死亡率を三分の一に削減し、妊産婦の死亡率を四分の一に削減することなどです。
特に第三、第四世界に属する管区では、貧困、教育、保健衛生の問題を多かれ少なかれ抱えており、聖公会も協力体制の構築が求められます。
ちなみにイギリス聖公会では、毎月主教俸給の一割を困窮している人たちを支援するために積み立てているそうです。
この日の午後、バッキンガム宮殿を訪れエリザベス女王に謁見しました。
主教は聖公会の分裂を望んではいない
七月十六日(水)から開催された会議も、八月三日(日)の夕方のカンタベリー大聖堂での閉会礼拝で幕を閉じました。
この日午後二時より最後の全体集会がもたれ、カンタベリー大主教が今回の会議の意味、今後の聖公会の方針、特に聖公会カバナントについて述べました。
キリスト者の一致は、すなわち、イエス・キリストとの一致です。恵みと赦しの賜物を受け、父なる神にどのように語ればよいのかをイエスから学び、聖霊の力により、道であり真理と命である特別な場所に立つ者の一致なのです。
各聖公会はおかれている状況、文化が異なります。しかし、いかなる時代、いかなる場所でも普遍的な信仰(Catholic faith)が求められます。私たちの信仰の根源であるキリストがどのようなところにお立ちになっているのか、どこにおられるのかの再発見と、その意味の深い理解が必要であり、神の恵みの賜物としての一致の絆として「聖公会カバナント」は必要なのです。
同性愛者の主教聖別や同姓婚の教会での祝福、管区や教区に対して他管区の主教が牧会、宣教活動を妨害するといった行為を一時停止することについて、ほとんどの主教は同意しております。
終わりに
様々な問題をかかえるなかで主教が共に祈り、食し、聖書研究会やインダバで意見を交換し、討論することを通して意思疎通をはかり、相手の立場を理解することができたのは最大の収穫でした。同時に、聖公会が多様化しているがゆえに、主教たちが、様々な場において苦渋の選択を強いられていることを肌で感じました。
ランベス会議に参加した主教の誰もが、今回の会議によって、解決すべき問題全てが取り払われたとは思っていないでしょう。むしろ、先送りにされたとの感は否めません。そうであっても、聖公会のなかに留まることが絶対に必要であるとの確信をほとんどの主教が抱いたのが、2008年ランベス会議の最大の成果だと思います。
ランベス献金お礼
ランベス募金委員会
ランベス献金は二百六十二万七千六百円献げられ、教区関係者の、ランベス会議のための祈りにより、多くの成果を教区主教は会議で得ることができました。
献金は、会議参加費、旅費交通費、おみやげ、会議前後の訪問先の旅費、宿泊費、報告書作成などに使われました。
感謝を持ってご報告申し上げます。